鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
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■ ■■■■■■■に■■る■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■が交差し、そうした背景から横浜浮世絵、絹地写真画の横浜絵、彩色写真の横浜写真、輸出用陶磁器が生み出されてきたともいうことができる。題材や技法が当時の日本には受け入れ難いがゆえに美術のメインストリームから抜け落ちたともいえるが、翻れば海外のニーズを意識した造形やモチーフが採用された結果、多くの人の手に渡り海を越えて海外へと広がっていったのである。近年「もうひとつの明治美術」(府中市美術館ほか2003年)、「近代日本の水彩画」(■城県近代美術館2006年)、「おかえり美しき明治」(府中市美術館 2019年)さらに2021年、京都国立近代美術館における「発見された日本の風景」展といった展覧下界において、明治期のこれまで注目されてこなかった水彩画に注目が集まり再評価の機運が高まっている。こうした展覧会活動において明治初期洋画界から忘れ去られた作家の発掘、再評価が積極的に行われる機運が高まっている背景を踏まえると、笠木治郎吉を調査研究する価値は、その作品は土産絵として制作されたとはいえども、明治洋画史の間■を埋め歴史の連続性において近代日本美術史を問い直す意味でも重要な作品、作家であると考える。ゆえに現存確認できる作品を可能な限り詳細な調査を行い、横浜における外国人の眼差しを反映した作品である、いわばツーリストアートともいえる制作に関わり埋もれていった画家の基礎資料の収集・整理を進めていくことで、そこから浮かび上がる明治期の横浜美術史の多層性多様性をより明確にし具体像を持たせることができる。そして文化、社会、政治、制度といった多角的な面から作品受容のあり方や、作家の作画活動を今後考えることができると思量する。研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程  内 田 夏 帆海北友松についての美術史研究は、大正四年(1915)に海北家伝来の史料が紹介されたことを機に本格化したといえる。それから今日までのおよそ一世紀、作品群の拡充と関連史料の発見が数多くなされてきた。特に海北家伝来史料に続いて、『九州下向記』や『智仁親王日記』、画料請取状など、友松の画事や交友を伝える史料が早くに紹介されたことで、研究初期において友松伝の略史が築かれた。これは以後の友松研究において、つねに基底となっているものである。― 79 ―

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