最勝太子像に関する基礎的研究―太宰府四王寺の場の意味に注目して―研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程 森 瑞 穂筆者は、卒業論文以来、福岡・観世音寺の兜跋毘沙門天像の成立背景に関する研究に取り組んできた。様式や作風、構造から 9 世紀後半の作と判断される本像は、日本の兜跋毘沙門天像の初期の優品だが、元禄10年(1697)以前の安置場所や造像背景が不明であった。筆者は、大陸世界への窓口であった辺要地太宰府特有の地政学的条件を前提に検討を進めるべく、北部九州所在の平安時代の神将形像、および平安時代の事相書『行林抄』や江戸時代編纂の『圓満山四王寺縁起』(福岡市博物館)を初めて議論の俎上にあげた。これらの検討から、観世音寺像や北部九州の神将形像にみいだされる奈良時代風の古様は、宝亀 5 年に対新羅関係の悪化を背景に大宰府政庁北方の山上に安置された四王寺塑造四天王像をイメージソースとした結果であり、 9 世紀半ばに四王寺に滞在した円珍が観世音寺像の造像に関与した可能性を提示した。筆者の説は、四王寺四天王像が、古代四天王像の機能を論じた三上喜孝氏や長岡龍作氏の研究で、強烈な対外感情の高まりの中で造像され、日本の辺要国での四天王像安置の規範となった先駆的事例と位置付けられていることを念頭に置いている。ただし、『行林抄』中の「異敵降伏法」の次第によって、四王寺では四天王像中の多聞天像(毘沙門天像)に対する信仰を基底に、最勝太子像が四天王像や明王像に囲まれ中尊として祀られたことが判明するが、先行研究では四天王像以外が見落とされていることに気づき、最勝太子像の機能や成立、展開を、周囲の尊像との関連も検討しつつ考察する必要があると認識した。最勝太子は、各種儀軌に四面八臂の姿の毘沙門天の子と説かれ、『天部形図像』(醍醐寺)に数種の図像が収載されるが、儀礼本尊とみとめうる彫像は現存しない。かつて刀八毘沙門天像のイメージソースを検討した入江多美氏は、最勝太子像に注目し、その初出は『吽□陀野儀軌』(金剛智に仮託、実際は平安中期の天台僧尊意の著述)であるとし、平安時代の日本で創出された尊格と結論付けた。しかし、実際には、宝亀11年(780)勘録の『西大寺資財流記帳』により、天平神護元年建立の西大寺の四王堂に塑造最勝太子像が安置されていたことが知られる。西大寺創建期の諸堂の尊像構成は、『陀羅尼集経』や『金光明最勝王経』が典拠とされ― 121 ―
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