巻三飲撰,巻四上銭幣,巻四下度量,巻五璽章,巻六碑誌,巻六附録古瓦の八部門から構成され,清野本と大きく異なっている。そしてこれは『七種図考』とわずかに「前豊服」巻の有無が異なるにすぎない。両書とも同じ安永7年(1778)の年紀をもち同内容の序を付して,その前後関係や『集古図』との関係が不明であった。『七種図考』はほとんど流布せず,『六種図考』がやっと限られた範囲で流布したにすき`ないため,両書写本の数は極めて少ないが,諸本を比較検討した結果,その成立に関して知見を得ることができた。一つは安永7年にそれまで収集した資料によって『七種図考』が編纂され,同9年その上梓の計画が実現しなかったのを契機に『六種図考』と改めたのではないかと推測されること,いま一つは現在確認できない清野本が『集古図』と両書との関係を明確に系統付ける重要な価値を持つということである。つまり個別の集成図が『集古図』に結実するまでの貞幹の試行錯誤の過程が『七種図考』及び『六種図考』の検討より,一層明確なものになるということだ。貞幹の著作として最もよく知られ,また代表作と目されるものに『好古小録』『好古日録』がある。考証随筆である両書が貞幹の学識を端的に示すものであることに異論はなく,時代の限界や誤りを指摘されてもなお,示唆に富む著作であることは間違いない。この中には『集古図』に収録された資料が示されること多く,貞幹の学問の文献のみならず,実物資料に基づいた実証的態度を以て行われたことを実感させてくれる。『集古図』編集の作業が彼の思考とどのように結びついているか,両書は明確に記録しているのである。『集古図』や『六種図考』・『七種図考』等の著作を見る時,貞幹の思考方法は,実物資料によって直感的に事実に肉迫し,直感を現実に置き換えるために再び実証的手続きを取ったように思える。この方法は当時の学界の水準にあっては大胆に見えて一般に成立しにくいものであったに違いない。文化を創造する源である思想と客観的実証性に裏付けられた科学としての歴史学というものがどのようにして接点を持つべきものなのか重要な問題を貞幹の学問は示しているのである。-94 -
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