つ。ただし,『芥子園画伝』の内容に倣った絵手本としての機能はとくに初編に際立ったもので,同じ『北斎漫画』でも編を継ぐにしたがいそうした傾向は次第に薄らぎ,ときには一頁一頁が北斎による単独の絵画作品となるなど,初編とはかなり異なる表情をみせるようになる点に注目しておきたい(注3)。(2) 北斎と北尾政美(鍬形慧斎)ところで,北斎の代表的な絵本である『北斎漫画』にも,やはりその作画に際して参考に用いた種本のあることは,過去に幾度か紹介されたことがある。それを整理すると<資料2>のようになるが,これらの指摘によって,ともすればその強烈な個性ゆえに,あたかもすべての図様を自らの筆で生み出したものと勘違いされがちな北斎の作品にも,やはり創造のためのヒントのあったことが披露されている。前章で追認したように,北斎は『北斎漫画』初編の制作に際して全体的な構成を『芥子園画伝』から借り,コンパクトにまとめた絵手本として世に送り出したわけだが,しかしながらこの初編をつぶさに観察していくと,『芥子園画伝』ともっとも異質な部分として,人物を描き集めた箇所に着目できる。江戸に暮らす老若男女の風俗を描いた初編の人物画の集合部は,中国風俗であらわされる文人画の点景人物のための手本集『芥子園画伝」から模すことができず,こうした江戸の時世風俗を描写した部分には,やはり異なる種本の存在を想定することが可能である。ところで,北斎とほぼ同世代の浮世絵師である北尾政美(のちの鍬形悪斎)は,『武江年表』に記述されるように,在世当時すでに自作が北斎によってことごとく模倣されたとして,北斎を非難したことで知られる人物である(注4)。実際に北斎が政美の作品から人物の図様などを学んでいた形跡は,政美の肉筆絵巻『近世職人尽絵詞』などと北斎の『冨獄三十六景』とを比較検討した狩野博幸・内田欽三両氏の研究からも明らかにされている(注5)。政美は,『北斎漫画』が自作『略画式』(寛政七年(1795)刊)の二番煎じであると主張したようだが,実際に両作を綿密に比較検討してみても,<資料3>にあげたニ・三の例が図様の点で若干の相関関係を匂わせる程度である。これも従米指摘されるように,『北斎漫画』発想の淵源に『略画式』をはじめとする一連の政美の版本作品があったことは一部事実であるとしても,大きく画風のかけ離れた両作例に,政美がとり-98 -
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