包む大気の瑞々しさという根源的な生命力の表出に,絶妙の効果を挙げている。それでは,この力は,どのように位置付けられるのだろうか。カの特質は,西田哲学の術語を借りれば,画面という「場所」に,「自己表現的に自己自身を形成するように働く」と記述することができる。そしてこの力は,あくまで日常性を切った,虚構の趣向を契機として生起するものなのである。この点を数奇の美学から観れば「透き」性の顕現と捉えることができる。透きとは,林屋辰三郎氏の論考の通り,空間的(時には精神的)な余裕,或いは完成度の欠如と解釈されている一方で,一期ー会という「めぐり合わせ」を媒介する,運命的な力とも位置付けられている。茶会という「場所」は,とり合わされた道具や参加する人々の,一期ー会という究極の現実において初めて成立するものであり,言うまでもなく,日常性の次元を超脱したものである。そして,その「場所」の時間的・空間的限定性が強まる程,根源的な力としての透きがより明白に現前するのである。つまり宗達は,数奇の美学の根本構造と言える透きの働きを,自己の作画の根幹に据えたのである。それでは,日常性の否定を必須の契機とする透きの働きは,宗教的(禅的)視点からはどのように捉えられるのだろうか。日常性を否定するということは,分別知(悟性)の次元における解釈を拒絶することである。禅学や華厳教学,法華教学等では,現実に自分が生きている「この世界」こそが仏の世界であると説くが,存在する一切のものや人間の生の全ての営みに働いている「仏の見えざる手」としての仏性は,分別知の次元では観ることができない。そこで行為による修証という道が生まれるのである。この道は,必然的にアスケーゼ(苦行)の階梯を要請するものであり,寺院における修行の他に,法華宗徒の職業観や,諸芸道にみられる技の追求という形をとる。それゆえ,宗達の造形はもちろん,諸芸道一般に認められる巧みや作意の働きは,観者(参加者)に,眼前にある虚構の,根底に現成する真理としての仏性を,悟性ではなく,構想力と理性を動員して修証することを動機づける,ー大契機と位置付けることができるのである。そして,この,全き虚構において初めて最も現実的な働きとしての仏性が,純粋に現成するという逆説的図式こそが,伝統的な文化にみられる「日本的特質」なのである。-4 -
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