真理を提示するのに,否定を媒介するという知の構造は,鈴木大拙の「般若即非の論理」や西田幾多郎の「絶対否定の肯定」という位置付けにより明らかにされたように,日本特有のものである。そして,この知の構造を根底から支えているのが,禅のみならず大乗仏教の根本思想とも言える,『般若心経』の“色即是空,空即是色”である。(『心経』は言うまでもなく中国から輸入されたものであるが,上記の日本的特質が,一般に言うところの「東洋的無の思想」と峻別されるのは,日本固有の述語的論理の体系において,初めて無の論理が完璧に即自的(ansich)に機能することができるからである。)そして,日本の風流や諸芸道が,非日常的な趣向を凝らすということと,その作意の痕跡をトレースすることを,宗教的アスケーゼの転化としての「遊び」と位置付け,展開の端緒としたことは改めて注目される。つまり「宗教性」という意識に囚われることは,かえって宗教を分別知の次元に限局してしまい,仏教が本来的に持っている自在性を損ねてしまう。そこで,宗教性を超越していると見えるように作意することが,かえって純粋に宗教性を具現することになるのである。(またそこから,作意とその解読という「遊び」における悟性から理性への知の登高こそが,最高の宗教的営為であるという解釈も可能となる。何故なら,『心経』の“色即是空,空即是色”は,論理的帰結として“色身(即ち眼前にある現象)に囚われてはならない”という命題を導き,この点がゲーム性の発動となるからである。)そしてここに,色身を唯一の媒体とする造形が,自在に宗教性を具現する道が見出されるのである。宗達の造形が,勝れて宗教的なものであると位置付けることの当否は,作品の受容層という視点からの検証を侯たねばならない。現在遺されている作品の伝来をみると,臨済宗,法華宗,天台宗,真言宗の寺院の占める割合が極めて高い。また,寺院以外の顧客層にも先述のように,宗教的関心を認めることができるので,宗教性が宗達の造形思想の根本構造であると結論づけることができる。そして異なる宗派にも宗達の造形が受容されたのは,臨済禅を契機として,宗達の造形思想の出立点となった『心経』の思想が,上記の諸宗派を結ぶ思想的紐帯であったことによる。それでは最後に,宗達の主要な作品が現示している宗教性の位相について,簡単に這べたい。-5-
元のページ ../index.html#12