鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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⑱ 滞欧期の須田国太郎一~日本の油彩画受容とセザニズムー一研究者:京都市美術館学芸員中谷至宏須田国太郎は1919(大正8)年から1923(大正12)年にわたるスペイン留学中,スペイン各地を訪ねながら風景画制作を重ねた。その内現在所蔵先を確認できるのは10数点に限られるが,日記を見る限り50点を越える風景画が描かれたことがわかる。美術史研究者として渡欧し,ヴェネツィア派絵画を主たる対象とした油彩技法の研究を中心的課題としていた須田に関して,プラド美術館での模写の作業はその研究課題の内に明瞭に位置付けられるのに対して,これらの風景画はいわば副次的産物とみなされがちであった。須田の日記を詳細に調査し,『京都の美術I須田国太郎資料研究』京都市美術館,昭和54年,にその研究をまとめた岡部三郎氏も,須田の晩年の談話として,展覧会にこれらの風景画を展示することを須田自身もためらっていたことを記している。本研究では滞欧期の風景画を,須田が後年幾度か論述の対象とし,また表現上の類比性から明らかな参照を感じさせるセザンヌ作品への関心との関連において捉えることを仮説的課題として念頭に置きつつ,まず風景画制作の具体的な様相と5年間におけるその推移を明らかにしようとした。そのため岡部氏の基礎的研究を基盤としながら,日記・備忘録の原資料を再調査し,また須田の撮影した写真とその裏面のメモを調査し,さらには現地調査を含めて須田の旅行中の足どりと風景画制作に充てた時間と場所を特定した。先述のとおり日記中に「写生」あるいは「…をかく」という記述をたどると50点におよぶ風景画が制作されていることになるが,ここではその中で現在所在が確認でき,様式上の変化に関して特に重要だと考えられる以下の作品に限定して調査の結果を述べることにする。1.くアーヴィラ>1920年10月京都国立近代美術館蔵H記より1920年10月11日〜14日にアーヴィラ滞在を知ることができ,断片的なメモではあるが,4日共午前中をCatedral,San Vicente等の教会見学に充てていることがわかり,午後には「西」あるいは「西写生油」という記述がある。作品は城外西方のCuatroPostes付近から描かれており,この記述が当作品に該当すると考えられる。メモ中の教会,修道院は城壁内ないしは城壁外東方に位置するが,城壁の西方には歴史的建造物はほとんどなく,絵画制作のために足を運んだのは明らかである。-119-

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