1枚は囚の作品と同じ地点から撮影されている。これはMogenteの駅から少しヴァレまた,この制作地はアーヴィラの町の地勢的特徴を把握するために最適の地点であり,これはいわば町の典型的な景観だと言える。2.くモヘンテ>1922年7月,82.0 x 65. 5cm (A) 1922年7月,須田はマドリッドからヴァレンシアヘ向かう。その途上,車中からの風景に強い印象を覚える。「エンシーナの景色にあっと驚くヂュフィーのかいたまちを思い出すここにちがいないと思うこれはとても一度こなければならぬ」7月19日,ヴァレンシアからLaEncinaに向かうが,記憶の風景に出会えず,翌20日Higueraを経てMogenteに向かい,ようやく期待していた風景に遭遇した。その日の記述に「お寺の横から小さな谷をうつすかく」「向ひの停車場へゆくふみきりの横に花果の陰を見出しそこからかき出す」とあり,LaEncinaに逗留しながら21日にもMogenteに赴き,「全て昨日のつづきをやる」昼食後「ふみきりをつづけるほぼかき終る夕暮となる」と記している。Mogenteで撮影された写真は5枚残されているが,その内のンシアよりに位置する鉄道沿いの地点であり,「ふみきり…」の記述がそれに相当することが確認できる。もう1枚の写真が「お寺の横から…」に相当することも確認できたが,(B)はその谷をさらに奥に入った側から因とは反対側の山並を描いた風景だとみなすことができる。それゆえ2日間のMogente訪問中,午前を(B),午後を(A)の制作に充てていたことがわかるのである。4.くダロカ>1922年9月,65.0 x 81.5cm 5.くダロカ城外>1922年9月,40.0 X 52. 0cm 9月26日から10月4日までのDaroca滞在中の日記には絵画制作に関してそれ以前には見られない詳しい記述がある。<ダロカ>は28日に開始(「25号を開始す」)。続いて29日午後,10月1日午後,2日午後に制作し,「これも兎に角一段落をつける」とある。この作品に関しては,日記中にほぼ同構図の小さなスケッチがあり,またこの作品よりやや低い地点から撮影したと思われる「宿の窓から山の方を向きます」という記述のある写真も残されており,SanJuan教会と山上のSanCristobal城跡を描いていることか確認できる。須田は宿の窓からの風景を求めつつ,より望ましい構図で捉えるために町の南側の高台に上って描いたと考えられる。<城外>は,10月1日午前「トンネルのある門外から山の方をやる」の記述が相当し,翌2日午前「不満足乍ら掴筆」3.くモヘンテ>1922年7月,66.6 x 81. 4cm (B) -120-
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