鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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とある。これにはほぼ同構図の写真も残されており,町の東側のPuertaAlta付近か須田の日記中初めて「写生」の文字が現れるのは,1920(大正9)年1月のポルトガル旅行の際のトマールにおける記述である。以後の記述から確認できる1点の風景画制作に充てていた時間は,<アーヴィラ>は例外としてほとんどがせいぜい数時間,長くて半日程度とみなすことができる。1920年,21年において,もちろんくアーヴィラ>のように町の城外に制作のためだけに出かけることもあったが,それとても町の特徴的な景観の全容を捉えようとする意識が強く,景観の選択だけをとれば未だ画家としての創造的な視線を見いだすことはむずかしい。だが22年に入ってからは,日記中にも単に「写生」とメモするだけではなく,描こうとする風景に関する印象の記述,あるいは制作の状況に関する記述も多くなってくる。またモヘンテのように風景を求めての訪問という新たな行動も見いだされるようになる。今日残された200枚余りの写真の内,風景画に関連性の明らかなものはごく僅かだが,モヘンテやダロカのようにそれらはこの年に集まっている。さらに制作の時間も半日ずつ2日,3日連続して描くことも稀ではなくなった。従って日記にみる限り,渡欧4年目の1922年には明らかに画家としての自覚的態度を読みとることができると考えられる。しかしながら作品そのものから制作状況や様式の推移を見るのが容易でないのは,作品によっては制作現場を離れた以後の加筆の可能性がかなり高いと思われるからである。帰国後の日記にも「トマール風景に手を入れる」などという記述があり,またマドリッド滞在中も,「写生絵保修」(22年8月25日)や「しきりに絵筆に親しむもどうしても思うような結果に来らず大英断を施さねば結果が出て来ないか今度の旅行中の写生全部ぶっつぶすつもりで明日とりかかろう」(8月26日)と記している。だが制作時間が比較的長いのに対して逆に絵の具の集積度や画面の統一的完成度が幾分欠けることからして,<モヘンテ>(A)やダロカの2点など1922年制作の作品には大きな改変や加筆は比較的少ないとみなすことができるだろう。それに対して<トマール全景>(1920年)やくアーヴィラ>,あるいは同時期でありながら(A)とはサインの様式の異なる<モヘンテ>(B)などは,時期は特定できないが,アトリエでの多くの修正,加筆を感じさせる。このことを仮に前提としつつ,滞欧期の風景画の表現様態を大別すると次のようになるだろう。1つはくモヘンテ>因に典型的な薄い絵の具の層を拡げながら下層との関係において色彩を成立させ,薄塗りのままに筆を置いた作品。そらMayor城跡を望んで描いていることが確認できる。-121-

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