鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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21年のイタリア及びオーストリア,ドイツヘの旅行,さらには22年5月のパリ訪問時のRosenberg画廊やLuxamburg美術館における経験が,渡欧中の須田の関心を再びして他方は建築物が持つ面の連関を強調しながら薄塗りの下層の上に比較的厚い絵の具の層を塗り重ねたくアーヴィラ>やくダロカ>のような作品である。前者は須田の基本的な課題であったヴェネツィア派の油彩技法の延長線上にあるが,ダロカ滞在中に「山には樹木一本もない諸土色が階段状に拡がっている丈だ」(傍点筆者)と記しているように,景観を面の展開として解釈しようとする視線が読みとられ,後者にはセザンヌを中心とする近代絵画の参照の介在を強く意識させるものがある。令ヘンテ>の制作に関して,デュフィやコローのイタリア風景画への言及があるものの,日記中にはセザンヌに関する具体的な言及は見いだせないが,1921年5月のミュンヘン訪問時には「古典芸術仏国印象派室最も興味あり」とあり,またその時の備忘録にはセザンヌ作品の色彩に関する詳細なメモがあり,<タンスのある静物>1883-87年に関して「たんす褐海青諸黄の段階」(傍点筆者)という記述を見いだすことができる。この「段階」や先の「階段」の記述には,直接的な指摘はないものの,空間をプランによって分節し,色彩の差異によってその空間の展開を表現しようとする,セザンヌの言うModulationとの類縁関係を読みとることもできるだろう。渡欧前から印象派への関心を少なからず持っていたことは後年の回想からうかがい知れるが,印象派,ことにセザンヌヘ向かわせたと推察することもできる。従って22年以降の須田の風景画制作への意識の変化と様式上の変化は,この21年〜22年初頭の新たな印象派経験に関連付けながらその転機を認めることができると考えられる。それゆえそれ以前に着手され,しかも完成度の高いくアーヴィラ>などの作品は,この時期以後の経験と意図によって再構成され完成をみたと考え得るのである。本研究において,セザンヌとの関連において捉えようとする課題は若干の推察の他は具体的な論証に至らず,須田の日記,備忘録,写真と現地調査による基礎的研究に終始した。さらに須田収集の文献調査,あるいは帰国後の須田の論文中のセザンヌ解釈などからのアプローチを今後の課題としたい。-122-...

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