鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
130/279

ー123-⑲ 「フランソワの甕」研究研究者:トキワ松学園女子短期大学助教授篠塚千恵子ギリシア美術の主題の主流をなす神話表現は紀元前8世紀後半ないしは7世紀初めに開始し,アルカイック時代に徐々に神々や英雄の図像が形成され,クラシック時代に確立されていく。紀元前570-560年頃に年代づけられる「フランソワの甕」と通称されるアッティカ製黒像式陶器(フィレンツェ考古学博物館蔵)は,ギリシア陶器画史上例のないほど多くの神話表現を含んでおり,ギリシアの物語表現形式の形成,発展を考える上で極めて重要な資料である。この甕が制作された紀元前6世紀前半は,神々や英雄たちの図像タイプが未だ完全には確立されていない,まさに形成されつつある試験的な,だが後世への影響力の強い時代であった。「フランソワの甕」には柄の表現も入れると合計12の神話主題が表わされており,200人を越える人物の大半,無生物の一部にまで入念に銘が付され,一種の目で見る神話百科辞典の趣を呈している。大きさも高さ66cm,口径57cmという堂々たるもので,陶画家クレイティアス,陶工エルゴティモスの署名も一度ならず二度まで現れており,何か特別の機会のために作られたことを見る者に印象づける。この作品については,多数の神話主題を表わす際に陶画家は統一的プログラムの構想をもっていたのか否か,主題の選択の霊感源になったものは何か,用途は何んだったのか等の問題をめぐって発見(1845年)以米これまで多くの議論がなされてきたが,未だ定説には至っていない。しかし,1972年から73年にかけて徹底的な修復と科学的な再調査ならびに細部写真を豊富に収録した報告書が出され,研究者の新たな関心を呼び,今一度この大作を捉え直そうとする機運が生じた。その結果,この作品の主題の選択に際しては,当時のアテネの政治・杜会情勢,宗教・文化の状況が大きな影響を及ぼしたという見解の下に「フランソワの甕」を新たに読み解く試みが近年相次いで出された。筆者もそうした研究を踏まえて全体的な統ープログラムの有無,用途の問題といった総論的考察を試み,論文にまとめた注(1)。そこでは,筆者は,この甕の出土地はエトルリアだがそこから注文されたものではなく,アテネで注文され使用されたあとエトルリアに渡った,というこれまで時おり出された推測を手がかりとして,その本来の用途は今まさに国家的神へと昇格しつつあるディオニュソスの祭儀と結びつけて考えられるのではないかという仮説を提出した。それは確たる論拠に基づくも

元のページ  ../index.html#130

このブックを見る