鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
131/279

のではなく,この甕の登場人物の中でひときわ目を惹くディオニュソスに焦点を合わせ,その相の下に捉えたとき導き出された仮説であった。しかし「フランソワの甕」はただディオニュソスの相の下にのみ捉えられるような単純な作品ではなく,その他にもさまざまな相の下に捉えることが可能な多面体であって,この作品を真に理解するためには,種々の相の下に捉え直す必要がある。今回の貴財団の助成を得ての調査研究では,「フランソワの甕」に表わされた個々の主題についての各論的考察を目標とし,その第一歩としてこの甕の中心的主題をなす「ペレウスとテティスの婚礼を祝う神々の行列(以下,「神々の行列」と略称)」をとりあげることにした。この甕に表された多数の主題には当時すでに伝統と化した古い主題と,アテネの文化政策による叙事詩の復活とともに今まさに生れようとする新しい主題の双方が含まれている(私見では,陶画家はすでに図像伝統のできあがっている古い主題には銘をつけず,新しい主題に銘を付すというやり方で新旧の主題を使い分けている)。陶画家クレイティアスが力を注いだのはいうまでもなく新しい主題であり,なかでも全体の主題プログラムの要となる中心的主題「神々の行列」だったと思われる。海の女神テティスと死すべき人間ペレウスの結婚には婚礼の宴に争いの女神が投げこんだ黄金の林檎に端を発する「パリスの審判」,さらにそこから生じるトロイア戦争というギリシア神話の名高い物語が胚胎されている。ペレウスとテティスの結婚を題材とした陶器画表現には大別すると3つのタイプが存在する一1)さまざまに姿を変えるテティスをペレウスが格闘の末ついに捕えて結婚にこぎつけるというエピソードを表わしたもの,2)馬車に乗った新郎新婦の婚礼の行列を表わしたもの,3)当該作品に見られるように二人の結婚の祝いにやって来る神々の行列を表したもの。第1のタイプが最も多く,200点を越え,次いで第2のタイプが推定作品を含めて約20点数えられるのに対し,第3のタイプは「フランソワの甕」以外には僅か2点しか存在しない注(2)。2点ともにソフィロスの署名があり,1点は残念ながらいくつかの断片で,アテネのアクロポリスから出土したアッティカ製黒像式ディノス(葡萄酒を水で和えるための柄のついていない半球状の器で,しばしば支え台を伴う),もう1点は出土地不明だが極めて保存の良い,比較的最近(1972年)大英博物館に入った支え台付きのディノスである。ソフィロスは通常アッティカ陶器に署名を残した最初の陶画家,クレイティアスよりやや先輩とみなされており,従ってこれら2点の作品は「フランソワの甕」よりも少し前,紀元前580-570年頃に年代づけられている。両者の表現はいくつかの相-124-

元のページ  ../index.html#131

このブックを見る