鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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工14-6)として,ほぼ全訳・紹介されている。また福沢一郎「抽象芸術」(みづゑ385)アプストラクト•アートな存在となる長谷川自身が,この頃になってようやく意識的に抽象美術を探究しはじめたことがわかる。1937(昭和12)年2月に結成された「自由美術家協会」を待ってはじめて日本の抽象美術運動は本格的に開始されたのである。日本で最初のまとまった抽象美術論となった長谷川三郎『アブストラクト・アート』(1937年/アトリヱ社)が刊行されたのは,同年10月であった。1935年に初代館長A.H.バーJr.の企画によってニューヨーク近代美術館において開催された「キュビズムと抽象美術」展は,印象派から抽象美術までの歴史を網羅して,分類・整理した画期的な展覧会であったが,この展覧会カタログであるA.H.バーJr.『キュビズムと抽象美術』は,それまで個別的・散発的に紹介されてきた抽象美術の総合的な画集として,日本の抽象美術運動にも大きな影響を与えている。刊行後まもなく寺田竹雄訳「ABSTRACTART MOVEMENT印象派より抽象絵画へ」(アトリは,この展覧会カタログを参照しながら,抽象美術を「幾何学的」と「非幾何学的」の二つの系統に分類して,「前者はキュビズムの直系卑族」であり,「後者…は,超現実主義の大部分が之に入る」と,抽象美術と超現実主義の関係について論考している。これに対して,「自由美術協会」の顧問でもあった美術評論家植村應千代「アブストラクト・アート」(アトリエ14-6)が,「アブストラクト・アートに関する理論は,現実の問題として,統一されたものではなく,理解と主張はまちまちである」とした上で,長谷川三郎(すなわちH.リード)の抽象美術論を支持して,「シュル・レアリスムをアブストラクトに加えようとする福沢一郎氏の見解」(すなわちA.H.バーJr.の抽象美術観)を批判している。抽象美術と超現実主義の関係については,当時の前衛美術運動の課題であったが,戦争へと傾斜していく時代のなかで,充分に論議されることなく残されることになった。瀧口修造「抽象芸術論」(『近代芸術』1938年/三笠書房)が,純粋主義から「抽象=創造」,H.リードの抽象美術論,A.H.バーJr.の抽象美術観までを視野にいれて,抽象美術を概説したという意味において,最も優れた論稿であった。4. まとめ以上のように,日本の抽象美術は,基本的には海外における抽象美術の動向や理論が紹介されることによって,それに触発・影響された新鋭画家たちの探究がはじま-136-

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