2.福井・青蓮寺観音菩薩立像(像高53.2cm針葉樹材ー木造)3.滋賀・舎那院薬師如来坐像(像高84.1cm檜材ー木造)岩座までを檜の一材から彫出し,両肩以下で腕を矧ぐ構造をとる(内剖りは施さない)。その作風は仁和寺二天像〔近時,仁和四年(888)造立の阿弥陀三尊像に当初から伴うとする説が提示されている〕,清涼寺四天王像,東寺食堂四天王像(焼失)などに続く流れのなかで捉えることができ,本二謳も一具として十世紀初頭に造立されたことが推定されようが,近い像容を示す〔その1〕像と仁和寺二天王像のうちの多聞天像を比較するとき,仁和寺像が短艦であるのに対して,本像は胴部が細く絞られ長身にあらわされるとともに拮裾の先端は背面で大きく左方へたなびいており,そこに量塊性から離れて伸びやかさと動勢への志向がはっきりと看取できる。筆者は以前,京都・醍醐寺如意輪観音像(上醍醐の清瀧宮伝来)についての考察を通じ,十世紀初頭の彫刻において既に旧来の量塊的制約からの転換がはかられているとの指摘をおこなったが,本作はこれを補強する一例とみなすことができる。若狭に伝来する本像は当代の都風をよく伝えており,京都・醍醐寺如意輪観音像以降の雅びな作風の展開を考えるうえで重要な位置を占めるとみられる。像は当初から漆箔像であったと考えられ,螺讐天冠台,宝冠,胸部,腹部,両脚部の随所に金属製装身具(銅製薄板であったか)をとりつけたとみられる小さな釘痕が認められ,このほか両肩には垂髪(同じく銅製薄板であったか)にかかわる釘痕が存在する。ところで,本像は「唐大尺」もしくは「曲尺」による一尺八寸像(丈八像の十分の一)とみなされるが,ちなみに各部の法量について,これを「唐大尺」で換算するとき,白奄高で一尺五寸,面長・面巾でともに二寸,面奥・耳張でともに二寸五分,正中において頭頂から拮折り返し部まで九寸,祷折り返し部から地付まで九寸の数値が得られるところから,木割りには「唐大尺」か用いられた可能性が考えられ,すると『延喜式」巻五十・雑式にある「凡度量衡者,官私悉用大,但測景合湯薬則小者」とあることとの関係が興味をひく。像底の銘文ならびに兵庫・円教寺の旧記の検討から書写山円教寺根本堂に伝来した尊像であったことが確認できる。この根本堂は開山性空の造立にかかり,本像も性空の発願像とみられるが,文献史料の検討から寛和二年(986)ごろの造像の可能性も検討されよう。すると,同寺講堂に安置された釈迦三尊像および四天王像(いずれも現存)とほぼ同時期の造立が考えられることになろうが,根本堂に本像(薬師如来像)-139-
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