鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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以上につき簡単に説明を加えれば,まず『介石画話』に登場する画家の内訳(頻度)を数字で示すと次のようになる。0中国画家…王維1,董源1,黄庭堅1,米苦1,米元暉1,趙孟頻1,黄公望7'呉鎮1,侃環2'王蒙1'徐渭1,夏呆1,李笠翁1,伊字九4。0日本画家…祇園南海2,影城百川1,池大雅5'高芙蓉1'木村兼簸堂2'鶴亭1,中林竹洞1'伊藤蘭隅1,長町竹石1,白雪察徴1。数の上では,介石が私淑したと言われる黄公望が最も多く,次いで直接師と仰いだ時期もあった大雅,また清人画家の中でも特に高く評価していたらしい伊字九が続く。彼が日常意識下に置いていた画家としては,概ねこの3人を押さえておけばよさそうであるが,そのうち黄公望と伊字九は,介石にとって中国の比較的遠い時代と比較的近い時代,それぞれで評価したい画家だったようである。特に黄公望に対しては,大和多武峰千手院所蔵の「天地石壁図」を捜し出してこれを模写,以後その筆意を守ったと自ら門人に伝える程の入れ込みようである。元末四大家は中国文人画の象徴的存在で,明代中期以降は,中国でも呉派の如く画風の典拠を四大家に求め,その中でも董其昌のように黄公望を高く評価した人物は存在するが,日本では伝来作品に乏しいためか,介石ほど黄公望に限定して四大家を重んじている画家は他にはいない。僅かに桑山玉洲が自らの画論の中で特筆する部分が見られるが叫画史に言及する中で触れた和漢の画家数十人の中の1人に過ぎないので,余計に介石の黄公望志向が目立つのである。加えて伊字九への傾倒をどう解釈するかも問題であり,本業を船主とする素人画家が当時の南画家に著しい影響を与えたという事実(その実像は今後明らかにすべき)には合致するが,山水画の跛法について論じる部分で“子久,字九の画に決して危き跛はなし”などと同等の扱いで評価している点は注目に値する。特に介石が伊字九の鑑識を行ったり,自分と伊字の画風が似通っていることを伊字九作品の所蔵者に指摘されるなどの逸話からして,自らの黄公望志向を現実のものとするのが伊字九の実作だったのであろうと考えられる。ここに更に大雅の存在を位置づける必要があるが,大雅様式の忠実な師資相承は難しかったと言われるように,本画論での大雅の評価もその人間性や南画の始祖としての意義づけに留まっている。それが,文人介石が絵師大雅に学んだことの現実だったのかも知れない。但し,大雅と高芙蓉との登山につき触れている部分もあるように,-144-

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