鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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言って,空間や遠近の表現方法を模索し構図に変化を持たせるなどといった姿勢には乏しい。②筆法では,特に跛法・樹法の形式化による山や樹木の形態の類型化が起こっている。また近景のものも遠景のものもほぼ均等に線描し疎密の差を殆ど意識していない為,奥行き感の減退・画面の平板化が生じている。③墨法では,墨の面的使用や濃淡の階調を利用した表現効果に対する意欲が薄く,その為画面からは乾いた印象を受ける。④色彩では,青緑山水などの作例もあるが,本格的な着彩画は少ない。しかし淡彩の場合,淡い藍,代諸,朱,黄土を要所要所に用いるなど大雅の色使いを初彿とさせるものもあり,特に小品には清澄な色合いを感じさせる優品が多い。これらは,介石の山水画における形式化,しかも介石独自の様式としてのそれではなく,粉本に載る妓法や樹法,構図の一部をそのまま本絵に応用・定着させたことによって起った図様の類型化・固定化の現れであるとも考えうる。自然に学ぶという姿勢とは裏腹に,当然心にi勇き上がるであろう空間表現への意欲や,大雅も模索を続けた“遠”の描出への興味は殆ど感じられない。つまり介石は,心に“真山水”を抱きながら,実作では粉本すなわち“画山水”に頼らぎるを得なかったのである。介石の“真山水論”は新しい技法への探究心を閉じ込め,ひたすら自然を追慕するという行為のみに集約される理想論へと発展していったのか。しかしそれは,介石が画家ではなく文人ーしかも放浪性や放蕩無頼といった反骨精神・反社会的行為を特色とするそれとは別の,より儒教的で自らに厳格な,かつ社交性に富み温厚な人柄で通っていた理想的な知識人階級としての一であったことに由来する。大雅が画家として南宗という様式の壁を越え山水画の奥義を究めようとしたのに対し,介石は仕官する文人画家であった為,理想論を組み立てた以上には実作でそれを語り切れなかったのではないだろうか。その“真山水論”とは一見矛盾する,実作に見る“画山水”重視の傾向は,『介石画話』の中にも指摘できる。“或る時翁に山脈の意を論ず。翁即ち奄をとり,脈の大意を模して僕に示す。即ち所謂馬背鉢の圃なり。翁の曰,山ュ石ともに皆馬背ならざるはなし。”二.“或時樹法を問,翁の曰,樹葉は凡て介字の意也,諸貼みな介字の心を用ふ。”三.“或る時翁の曰,(山は)絶頂狭く,其脚廣く,因より不動を要とす。世人跛を霊く,皆危し,跛も同断,上狭く脚廣く安置する事第一也。”-146-

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