鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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註3: 『介石画話』は,現在東京大学文学部付属図書館に所蔵されている,旧徳川家4.おわりに以上が現在までの考察結果であるが,今後は以下を課題として研究を実施してゆく。①『介石画話』以外の画論や図賛・書簡類の内容をより綿密に考察し,他の画史・画論類に言及された介石の人間像を理解すると共にその作画精神,山水観の全体像を捉える。②介石の山水画に見られる‘‘真山水”の影響と“画山水”の影響をより詳細に分析する為,調査を実施し可能な限り作品を実見する。③上記により介石画の特徴を考察,その全体像を把握すると共に,同時代の画家,特に玉洲との比較から,19世紀前期関西画壇の動向を,和歌山という土地の地理的特徴に照らし合わせ考えてみる。註1:酒井哲朗「野呂介石の生涯と芸術ー全体像追求のための序論ー」(1978年3月和歌山県立博物館『特別展野呂介石』図録所収)を基本文献として,研究を進めた。実施できた。南葵文康蔵本の写本を底本にして,『画説』29• 31号(1939年5月・7月)に脇本楽之軒氏によって公刊されている。奥付には“時文政十有二年歳次已丑冬十月門人阿波芝嶽呉克明誌紀南白雪禁徴校”とあり,これは,玉置百齢編『三名家略年譜』所収の介石年譜中,文政12年の條に載る“門人所筆記介石書話成”との記述を裏付けるものである。また介石の画論としては他に『四碧齋画話』(1938年3月『美術研究』75号では森銑三氏によって公刊),文政3年(1826)の「噛傲帖」の図賛,文政8年(1825)門人の如運と画論を交した書簡等があるが,今回は『介石画話』を中心に取り上げた。註4:寛政2年(1790)『玉洲画趣』(坂崎坦編『日本画談大観』上編所収)参照。註5:介石の登山旅行の主なものは次の通りである。*寛政元年(1789)43歳…4月下旬,藩の役人に伴い人足共全て11人で奥熊野から大和国に入り大壷原山に登る。→後に『憂山趾歴略記』を著す。*寛政4年(1792)46歳…6月金峰山陰竹原村にて避暑。→日々山水を写して娯しむ。*寛政5年(1793)47歳…2月12日,玉洲,瀧江,元方らと共に熊野詣に出発する。*寛政6年(1794)48歳…11月,那智山中に遊ぶ。註2:和歌山県立博物館学芸課長小田誠太郎氏に大変お世話になり,充実した調査が以上。-147-

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