1000点を越える。そのうち絵画は二百数十点,書跡は約90点,茶道具は約300■400点2.絵画コレクションの概要その次の上手で狩野派の絵をよくした6代綱長の時代に,絵心を持った藩主の好みの作品が収集されたことも十分考えられる。さらに加えるならば,2代吉長の室は前田利家の娘,3代長晟の室は家康の三女,4代光晟の室は加賀御前と呼ばれた前田利常の娘,5代綱晟の室は京都の公家の娘というふうに,繰り返えされた大々名や公家との婚姻が,コレクションの形成に何の影響も及ぼさなかったとは言えない。この時代は美術工芸品が献上,祝儀,下賜などの贈答によって,しばしば大名間を行き来している。いつ,誰が,何を,なぜ贈答したかなど代々の譲り道具帳が失われている今,ほとんどわからないと言ってよい。しかし前述したように,コレクションの大半は,(1)武家の体制と体面が形成された時期,(2)美術品が動いた時期,(3)経済的余裕があった時期に形成されたと推量される。大名家の台所が逼迫して来た江戸時代中・後期よりも,断定は出来ないが,浅野家で言えば広島藩初代から数代の間が主たるコレクションの形成期と見るのが妥当ではなかろうか。次におよそ250年間に蓄積された大名コレクションが,いっ,どのようにして散逸して行ったかが問題である。大きな歴史のうねりの中で散逸して行った諸大名のコレクションの,一つの例として浅野家の場合を見てみたい。旧浅野家コレクションが大量に出て行ったのは,昭和18年相続税のために行われた売立によってである。753点の売立記録があるが,数百点の婚礼調度を加えれば,優にである。また昭和22• 23年にも財産税・富裕税のため,記録(棒目録)によれば,絵画茶道具,刀剣など約250件が売立てられた。しかし,昭和20年8月6日の原爆投下によって,縮景園内にあった十数棟の歴代藩主の所用品を納めた蔵が灰塵に帰したことを思えば,昭和18年に売立てられたものは,少なくとも被爆をまぬがれたと言えるのである。旧浅野家絵画コレクションの概要を知る基礎資料は,まず大正6年発行の「浅野侯爵家宝絵譜」(芸海社)である。掲載された伝徽宗皇帝筆「水仙鶉図」をはじめとする中国絵画19点,良全筆「鷺図」など日本絵画18点は,まさにコレクションを代表する優れた作品である。次に1913年(大正2)に広島市中区の縮景園内に建てられた私立美術館の喘矢とも言うべき観古館の記録(大正5年発行)と,開館記念絵ハガキ10輯-150-
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