ただせいびンの雪舟の作品のうち現在図柄がわかっているものは12点である。その中には,雪舟が明から帰朝して3年後の文明4年の款識がある「金山寺」のような端正厳粛な描法の作品もある。しかし師の周文様を踏襲する作品とは異なる「破墨山水図巻」や「山水小巻」(山口県立美術館蔵)が含まれているところにコレクターの目を感じないわけにはいかない。また同じ奥道具であるが,徳川家の「源氏物語絵巻」が豊麗な賦彩画であるのに対し,浅野家のものは散文詩とも言うべき清少納言の枕草子を白描体で描いた「枕草子絵詞」なのである。その他,高橋箸庵が「東都茶会記」の「浅野侯爵観古館」の中で,「風姿端麗,衣紋の白描筆法軽妙にして,音に能阿弥の傑作たるのみならず,日本古画中の秀逸,宋代作家に対比して更に遜色なきを覚えぬ」と絶賛した能阿弥筆「岩上観音図」や,水辺を闊歩する生気に充ちた良全筆「競図」などにも,瀬戸内海の風土にも通う穏やかで細やかな抒情性を感じる。さらに私見を許されるならば,国華547号で「浅野家襲蔵の画幅,流水の辺に心ありげに紅葉をみる武家の美少年を写したものの如き云々」と紹介された探幽筆「観楓図(少年秋遊図)」に,他の大名コレクションにない浅野家独特の風雅を感じる。探幽(1602-1674)の活躍期は4代光晟(1617-1693)の時代に当たる。この御曹子の如き気品のある若衆は,36歳で亡くなった5代綱晟(1637-1673)か,探幽が72歳で歿した時15歳であった,学問を好み余技の絵は歴代藩主中2番目という6代綱長(1659-1708)ではなかったか。いづれにしろ浅野家には探幽の作品が20点近くあったことと,探幽の筆にしては稀な画材であるこの作品が,探幽と浅野家の間に何らかの関係があったことを窺わせる。4.今後の研究課題旧浅野家コレクションについては,これまでに挙げた基礎資料のほか,広島城下の記録「知新集」(1822),藩地誌「芸藩通志」(1825),歴代藩主の史伝「済美録」(1818),文書・記録集「事蹟諸鑑」(1796• 1816)や「近世道具移動史」(1929)等々の文献をさらに検討してゆく必要がある。また武具,書跡,茶道具,能関係資料,工芸品なども調査し,大名道具のトータルとして研究してゆかなければならない。そして現在図柄のわかる徽宗皇帝をはじめとする44作家の中国絵画約70点,明兆をはじめとする30作家の日本絵画約80点に検討を加え,大名コレクションに共通するベース,共通しない特色などを明らかにしてゆきたい。-152-
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