des Dichters V asari」など4点を出品しつつも,5月のデュッセルドルフ国際展ではCon Simpatia Futurista/Berlin 26/3/1922/Y. Nagano/私の愛する/詩人/バッサリ1922/Berlin」と署名があり,日付も早い。さらに永野は1923年(1924年の誤記と思わヴァザーリはベルリンで画廊を運営することになるが,当然作品を扱うことになった。その記録らしき作品台帳が残されている。表紙には「QuadriItaliani/Mai 1922」とある。そのなかには永野と村山の項目もあって,永野については上記作品がそれぞれ記載されていることを確認した(図3)。ただ,プランポリーニとヴァザーリの雑誌『ノイ』1923年8月号に図版が掲載された「ギターを弾く婦人Fraumit Gitarre」が線で消されている。それが売却されたことを意味するのかいなか不明である。一方,村山については「肖像Ritratto」と,「ささやかな愛の思い出Ricordodel piccolo amore」か記されているが,いずれも村山自身による記録にも言及されていないし,当然図版も残されていないので,今後の課題となる。ただし,「肖像」については,1922年3月にJ.B.ノイマン画廊で開催された「大未来派展」に村山が「詩人ヴァザーリの肖像Portr註tこの作品だけを出品していないので,同作である可能性もないわけではない。この貴重な2作品のほかにも,ヴァザーリ家の資料には興味深いものがあり,日本の作家との交流を傍証する。村山と永野が詩人に贈った比較的大きなポートレート写真(いずれもデュールコープDlihrkoop撮影,22.3x 16. 8cm)がある。それぞれ献辞が記されている。村山の写真には「親愛なるバッサリ氏に。/村山知義/一九二二,四,一七/ilpittore giapponese Murayama」(図4,5)。永野のものには「AlPoeta Vasari/ 兄に贈る/大正十一年三月廿六日/伯林にて/永野芳光」(図6,7)。現在神奈川県立近代美術館に所蔵されている永野旧蔵写真アルバムには,ヴァザーリの献辞のはいった写真が貼られており,これに対する返礼の意味もあったと考えられる。永野はもう一葉写真をヴァザーリに渡している。こちらにも,「Y.Nagano/ 10 Marzo れる)1月4日づけで大阪から,『ノイ』編集部宛に,ハンス・ヒルデブラント著『ア,ルキペンコとその仕事』の予約をしており,その注文の葉書も残されている。このことからも,永野がよりヴァザーリと親密な関係にあったことがうかがえよう。村山自身は1926年になって『文芸市場』7月号に「一九二二年」という小説を発表して,そのなかでヴァザーリのことを描いているが,かなり戯画化している。さて,今回の調査で予想もしなかったことは,ヴァザーリと神原泰の関係であった。おそらく,村山や永野が帰国した直後にマリネッティやヴァザーリを同人としてかな-9-
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