鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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蕊をつけて書いたものと思われるが,文字への神経の配り方,線による碑面の埋め方などに文化4年本ほどの緻密さはない。署名がないうえ,画風など,これ以上比較できる要素もないが,田善の家にほど近いところから伝来したことなどからも,田善による試作的な作品ではないかと想像されるものである。今後の画業の総括的研究に向けて,基礎調査を通して気づいた個々の問題点について記す。(1) 大和文華館本,新出本「富士遠望図」の制作時期田善の洋風画制作期は,寛政6年(1794)以降,文政5年(1822)に没するまでの島・満福寺所蔵)以外に,制作年の明らかな作例がなく,「両国図」や「浅間山真景図屏風」といった代表作はおよそ文化年間頃のものと考えられている。作画期は,おおよそ文化年間とその前後に分けられるだろう。新出の「富士遠望図」と大和文華館本「駿河湾富士遠望図」の様式的特徴については,先に記した通りで,円熟期のものとは異なる。円熟期以前の未完成な様式か,あるいは以後に置かれるものなのか。大和文華館本には新出本と同じ2顆の印章があるが,各印とも印文にとぎれた箇所がある。現存する両木製印(須賀川市立博物館蔵)をみると,印章自体の経年による欠損部とわかる。この欠損は他の作例ではみられないところから,文華館本の制作時期は降るものと推定される。新出本は描き印だが,先に記したとおり文華館本に近い時期のもので,ともに円熟期以後の作品である可能性が強い。構図や賦彩を入念に決定していく円熟期の作画法を離れ,淡泊な描線を主体に,地味な著色,日本画風の描2 その他の問題約30年間と考えられる。だが,肉筆画では享和2年(1802)の絵馬「洋人曳馬図」(福図2多賀城碑図-156-

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