鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
19/279

1冊,戯曲「機械の不安L'Angosciadelle Macchine」について,イタリア未来派のfuturiste italien, T. 2, Lausanne 1976, p.153)。ただし,どのような根拠があるのde la Synthese dramatique de son ami et admir-ateur Fred Antoine Angermayer 1924」とあるK. u. E. Twardyでの個展の作品目録(1922年6月)が入手できた。図版もない,全20よう。ヴァザーリもこれに応えている。大原美術館蔵の神原泰文庫の目録によれば,ヴァザーリの本が3冊(F-128,129, 130)あり,うち2冊の扉にサインがある。そのうちの研究者G.リスタGiovanniListaは邦訳を神原が試みたという注記をしている(Theatreか示されていない。今回の調査でそれを確認する書簡や記録はなかったが,今後の課題としておく。また「日本未来派」に関係する資料としては,村山と親しくしていた劇作家であるフレット・アントワーヌ・アンゲルマイヤーの写真がある。裏側には献辞があり「ARuggero Vasari, au Maitre (図10)。アンゲルマイヤーは「機械の不安」をベルリンで上演しようとして果たせなかったが,この献辞からもそれが推される。なお,最後にルイス・ロゾウィックの資料については若干触れておく。まず村山たちが1922年9月に連続個展を開催した小さな画廊,ポツダマー街の有名な「シュトゥルム」画廊のちょうど向かいにあった画廊=書店トワルディー点ほどの簡素な出品一覧であるが,このほとんどドイツの美術史でも無視されている画廊がきちんとした展覧会場として機能していたことが確認できた。ロゾウィックは翌1923年にもクアフュルステンダムのヘラー画廊で個展を開催する。その目録の序文は実は前出のアンゲルマイヤーが書いている。この一事をとってもロゾウィックが「日本未来派」の周辺にいたことはまず疑いないところである(村山も彼が『ブルーム』誌に寄せた「タトリン論」を「構成派批判」のなかで訳出している)。だが,今回入手できた資料では,たとえばベルリン時代を回顧したタイプ原稿などにもざっと目を通したが,それらしい記述は見当たらなかった。今後,じっくりと分析図10アンゲルマイヤーの献辞1924年-12 -

元のページ  ../index.html#19

このブックを見る