鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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(筒描き)(渋木)なまその結果,工房内に残された資料の中には型絵染の作品が完成する途中の芹沢の生(葉)には全国各地に散在する作品の所在調査が行われている。さらに各巻には芹沢と親交のあった人々が文章を寄せていて芹沢美術の集大成というべき事業となった。美術館の開館と全集の刊行は芹沢が生存中に成し遂げられている。しかし,1984年に芹沢が逝去した後,蒲田の工房には作品と多くの関係資料,収集品が残された。それらを長男の長介氏が整理して東北福祉大学に寄贈,平成元年6月に東北福祉大学芹沢娃介美術工芸館が開館した。東北の風土を愛し「仙台にも是非陳列館を」との芹沢の遺志を継承してのことであった。未公開の作品の発掘を行うことと併行して,逝去後9年の工房がそのまま残されている現在,早い時期に制作に関わる残された資料を収集整理して置くことが急務であると考えてその作業を中心に行なった。な創造である下絵,試作染,見本が多数含まれていた。すでに「芹沢娃介手控帖」(1969求龍堂)のように出版されているものもあるし,中央公論杜の「芹沢娃介全集」に掲載されるように,エスキスも独立した作品として扱われているものがある。しかしこれらは彼自身にとってはあくまで型絵染の下絵であり,仕事の積み重ねの一端であった。下絵については,扇面文着物下絵(写真①),柳文のれん下絵(写真②),知恩院荘厳布下絵,大阪フェスティバルホール緞帳下絵,四季曼荼羅下絵,鉄行燈下絵,ステンドグラスの下絵,のれん下絵,カーテン下絵,釈迦十大弟子腺像の型紙からはずした下絵など102点がある。さらに珍しい資料として貝文着物下絵(写真③)がある。着尺制作の折にはあらかじめ贅物の形を作って文様の配置の検討を行なったことを示す資料である。箔尺,のれん,風呂敷,手拭,浴衣などの布に染める前に試作した資料は237点に及ぶ。の仕事を「多の仕事」として流通させるための芹沢の実践であった。芹沢は自分が創造した文様を商品化して世に広めるため,工房に働く若いエ人たちの指導者としての責任ある立場にあった。そのことを示唆するように,指示書きがなされた資料や,見本と書かれて丁寧に色挿しがされ,色見本が貼付されているものもある。たとえば,ざくろ文のれん,「筒,シブキ,カテキュー,線細く,巣ノトコロベタ,ハの中ノ線ハ1955年に,芹沢染紙研究所が創設された。柳宗悦の民芸思想の中にある「個人作家」-186-

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