出されている。上記の諸聖堂を研究するにあたってはこうしたさまざまな要素を踏まえなければならないことになる。すなわち中期ビザンティン絵画史(特に後期コムニノス朝)で常に問題となる首都と地方の問題がここキプロスでも重要課題であることがわかる。しかしそれぞれの聖堂の保存修復上の研究が十分進んでいないこともあってまだ徹底した様式研究は望めない状況である。例えば聖ニコラオス・ティス・ステギス聖堂では,キプロス考古学局が13世紀のアプシスの壁画を剥がし,それはニコシアの美術館に展示し,聖堂を創建当初の状態に戻す試みが行われた。このような保存修復は,さらに塗り重ねられた他聖堂でも望まれるが,特にイエロスキポスの聖パラスケヴィ聖堂のナオスの北壁の15世紀の壁画の下から一部発見された12世紀末の「聖母の死」の画面の全容が早く明らかになることが望まれる。これは,ラグデラのパナギア・トウ・アラク聖堂やネオフィトスの庵エンクリストラなどの作例とともに,コムニノス朝末期の独特なマニエリスティックな表現様式の成立過程を明らかにするのに重要な作例となるであろう。島という限定された空間にある程度まとまって同時代の作品が残っているキプロスは,今まで明らかにされてこなかった中期ビザンティン美術史のいくつかの問題の考察に重要な場所であることが,今回の調査でさらにはっきりした。以下にそのいくつかの問題点をまとめる。(首都と地方の問題,そして画家の比定)キプロスと首都の芸術の影響関係をみるとき問題になるのは,まずその聖堂の寄進者とその建設の意図から見る首都との関わりである。アシヌのパナギア・フォルビオティサ聖堂,聖ニコラオス・ティス・ステギス聖堂,パナギア・トウ・アラク聖堂,ネオフィティスの庵,など他の聖堂と比較して優れた質を示す壁画を残している。こうした主たる聖堂には銘や献辞が残されているため,我々には,それぞれの聖堂が成立するにあたり首都の有力者を庇護者にしたのか,あるいはそれが地方の有力者であるかについてはかなりの判断材料が残されていることになる。しかし寄進者が歴史的に同定されたとしても,それに携わった画家が首都の画家であるのか,あるいは首都で制作された写本やイコン画などの影響か,さらには首都の画家とともにその指導によって制作されたものかなどの判断は,結局それぞれの作品の細かい様式分析によらざるを得ない。現在までの観察で顕著な例は,まず10世紀末あるいは11世紀初頭に描かれたと見られる聖ニコラオス・ティス・ステギス聖堂の第一期の壁画が同時代の写-195-
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