鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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⑬ 相阿弥の研究研究者:東京国立文化財研究所美術部主任研究官島尾【はじめに】相阿弥(?〜1525)には三つの顔がある。一つは幕府同朋としての,二つめに京衆としての,最後に東山文化イメージを背負った「伝説的存在」としての相阿弥である。従来強調されてきたのは「一つめの顔」であるが,相阿弥のすべてをこの面から語るのは無理がある。「幕府同朋」というシステムは,1500年ころをめどに実質的な崩壊へ向かう。相阿弥の晩年が,安定した幕府同朋としての生活であったとは思われない。彼の代表作とされる大徳寺大仙院の「山水図襖」は,その晩年に,しかも町衆文化の拠点・大徳寺に描かれている。この作品を全面的に「幕府同朋」相阿弥から理解してよいのだろうか。相阿弥は,時代の節目を生きた人である。本稿では「幕府同朋」から「京衆」へという相阿弥の転変を仮定したうえで,彼の画風展開についての一仮説を提出したい。【研究の現状l相阿弥は単なる「画家」ではない。唐物奉行として幕府のコレクションをコントロールし得る地位にあると同時に座敷餅の任を負い,正信の絵画制作に実質的に関与し,それに加えて「国手」と呼ばれた高い画技をもつ。単純化すれば,画家であり,コレクションの管理責任者であり,鑑定家であり,インテリアデザイナーであり,美術教師であり,また画家のコンサルタントでもあるという,絵画の制作と鑑賞におけるほとんどすべての状況に関係する,いわば美術の「総合プロデューサー」のような存在であった。このような多面的な活動が知られるにもかかわらず「画家」としての相阿弥について語ることは難しい。相阿弥真筆と認められる作品が極端に少ないこと,文献資料が遍在していること,がその主な理由である。年代の知れる作品は,大徳寺大仙院の「山水図襖」のみで,これは晩年に近い作である。鑑識の面でも様々な問題がある。印章は,メトロポリタン美術館蔵の「四季山水図屏風」に押されたものを基準とするよりないが,この作品の印章は,左隻と右隻で異なっている。この印は,大仙院の小画面の「灌湘八景図」などとも異なる。作風新-198-

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