からの鑑識にも難しいところがある。大仙院の「山水図襖」における達成は,端的にいえば全体の構成である。同じようなモチーフを繰り返しながら画面全体に穏やかなリズムを作り出し,柔らかな墨と筆が「湿潤な」といわれる雰囲気をかもしだす。しかし,細部の手法はかなり単純化されており,他の作品との細部比較による画家の特定作業を困難にしている。例えば,相阿弥筆の伝承をもつ,いかにも「大仙院風」の小画面の作品との細部比較は,画面形式の違いや作品の質の幅を考えると,厳密には画家の特定へと結びつくものではない。文献資料の面でも問題がある。「幕府同朋」としての相阿弥については「陰涼軒日録」にまとまった記述があり,「公務」の部分は明らかになるが,彼の「画技」については,あまり触れられていない。しかし,彼の画が高く評価されていたことは,五山文学に記された「国手」「国エ」を冠されたいくつかの作品によって知ることができる。彼の特殊な地位は,プライドの高い五山の禅僧が,ふつうは「画工に命じて」作らせる絵画を「相阿に請いて」描いてもらっていることからも想像できる。これに対して,彼の晩年については,断片的な記事が残されるのみである。このような状況が,文献資料で「幕府同朋」としての相阿弥を語り,作品としては「京衆」としてのものを使う,という語り口を生んだのであろう。いずれにしても推論を重ねるより他はないが,冒頭に述べた立場から,以下相阿弥の画風を検討しよう。【相阿弥の画風展開】相阿弥のもつ「幕府同朋」と「京衆」という二つの面を対比的に語るために,それぞれを彼の「前半生」「後半生」と呼んでおこう(「晩年」といったほうが正確だろうし,ある時期から画然と両者が区別できるわけでもないが,紙数の制限もあり単純化しておく)。前者から後者への移行過程で,相阿弥の作風も大きな変化を遂げたと考えられる。相阿弥の作品で,唯一の年代が知れるのは大仙院の襖絵(1513年頃)である。これは明らかに彼の後半生に属している。相阿弥の前半生の作風については,どのように想定することができるだろうか。最近,山下裕二氏は,相阿弥の先代・芸阿弥についての論孜のなかで,夏珪系統の「山水図巻」と,その芸阿弥経由のヴァリエーションが,当時の中央画壇における楷体山水図の大きな部分を占めたことを指摘された(「夏珪と室町水墨画」『美術史の水脈』ぺりかん社,1993)。芸阿弥系統の「夏珪様山水図」-199-
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