つ。が画壇の中心部で大きな力を持っていたのである。相阿弥の作とされるサンフランシスコ・アジア美術館などの「観瀑図」も明らかにこの系統に属している。芸阿弥が没するのは,文明十七年(1485)五十五歳である。相阿弥は,その直後から「陰涼軒日録」にしきりに顔を出し,しっかりと公務を果たしているから,彼は既に芸阿弥から伝授された画風を確立していたと思われる(相阿弥の生年が不明なので,この時の年齢は分からない。没するのは大永五年(1525)七十余歳と伝える)。山水図に関する限り,それは「観瀑図」に見られるような芸阿弥風の「夏珪様」と考えるのが自然である。もちろん芸阿弥が,相阿弥風の草体の山水を描かなかったという保証はない。芸阿弥の真筆が「観瀑僧図」(根津美術館蔵)の一点しか知られない現在,それを論証することは不可能である。芸阿弥の作風は,彼の弟子であることがはっきりしている祥啓の作品などから推測するより他はない。その祥啓には,玉澗様とか牧硲様とかの草体の山水図は知られていない。芸阿弥の伝承作品にも,そのようなものは極端に少ない。芸阿弥が全くそのような山水図を描かなかった,とは言えないが,少なくとも彼の山水図の中心にあったのは,「夏珪様」の楷体山水であり,そのもととなった東山コレクションの「最高の価値をもつ夏珪」を自らの手の内に収めていることによって京都画壇の中心としての権威を維持していたと考えられる。幕府同朋としての相阿弥は,そのような画風を継ぐことによって,芸阿弥と同様の「権威」を保つことができただろところが,足利将軍家の没落とともに,幕府同朋というシステムは,崩壊過程にさしかかる。絵画の世界も,足利将軍家による「権威の時代」から「マーケットの時代」(近代的な意味でのマーケットではないが)へと変化する。そのなかで,合理的な工房システムを創出することによって,絵画マーケットを席捲したのが,狩野元信を中心とする狩野派である。幕府同朋としての「権威」に安住していられた相阿弥も,状況の変化に対応せねばならなかっただろう。そして,彼が活路を見いだしたのは京都の町衆のなかであったと考えられる。彼の代表作が大徳寺という「町衆文化」の拠点であり,文化的シンボルでもあった寺院に遺されていることは,これを象徴する。彼は「東山文化」という,町衆にとっても憧れの「文化イメージ」を身に纏っていた。後世,茶道に華道に作庭にと「東山文化の後継」を称する芸道は,ほとんどがその祖として阿弥派,特に相阿弥を称揚する。そのような「相阿弥伝説」は,恐互くは彼の-200-
元のページ ../index.html#207