「京衆」としての後半生に淵源をもつ。「君台観左右帳記」の伝授の如きも,その現れであろう。そのような時代の波のなかで,画家としての相阿弥の「結論」が,大仙院の襖絵に典型的な「相阿弥様式」だったと考えられる。芸阿弥から伝授された「夏珪様」は,間に流通しており,狩野派も,すでに自家薬籠中のものとしている。「筆様制作」という「権威のシステム」は崩壊しつつある。「マーケット」の時代に,画家に要請されたのは「自社ブランド」を確立すること,他の画家とはひと味違った画風で描くこと(self-differentiation)であった。それに対応するために,相阿弥は「夏珪様」を自分の画技の中心からはずす。そして選んだのが,東山コレクションにあって,いまひとつの頂点にあった「牧硲」だったのではなかろうか。当時牧硲の最高の作品と信じられていた「灌湘八景図」は,なぜか相阿弥より前には「牧鉛様の山水」として描かれてはいない。雪舟の,いわゆる「流書手鑑」にみえる「牧硲」も,「灌湘八景図」の世界とはほど遠い。大仙院の襖絵は,牧硲からのみ理解できるものではないが,「漁村夕照」の場面は,明らかに牧硲が意識されている。伝相阿弥といわれる作品にも「灌湘八景」が多い。後世の相阿弥の認識は,まず「灌湘八景」の画家であり,そこには多く印象的な,あの牧硲の「夕照」が描き込まれている。【おわりに】冒頭に述べた「相阿弥の三つの顔」のうち,最初の二つについて仮説を立てた。議論は単純化したが,実際にはこれらの二つの性格は,一人の人間のなかに混じりあって存在しただろう。また,本来ならばこの作業は「三つめの顔」をきちんと分析した後に行う必要であろう。「相阿弥の伝説」を語ることは,単に日本絵画史に留まらず,日本文化史にとって本質的な問題を提起すると考えられる。-201-
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