鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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(ママ)(千力)(ママ)ツクー.近露王子精進波羅蜜菩薩安恵顕給,面色白,童鉢,着青衣,棒突,⑭ 垂迩曼荼羅における図像の借用と創造研究者:東京国立文化財研究所美術部第一研究室長中野照男熊野王子は,大阪淀川沿いの窪津に始まって,熊野三山に至るまでの参詣道の道々に祀られた熊野権現の若宮である。それぞれ,遥拝や楔祓,休憩などの目的に使われたらしい。熊野王子がはじめて記録に現れるのは,永保元年(1081)で,藤原為房の日記である『大府記』の同年9月24日の条に,彼が和泉国の日根王子に奉幣したという記事がみられる。おそらく,平安時代末期までには,藤代,塩屋,切目,磐代,滝尻,近露,発心門の七社が設けられたと考えられ,以後熊野詣でが次第に頻繁になるにしたがって,次々と王子が設けられ,ついには百を越すまでになった。通常,熊野九十九王子と呼ばれているが,熊野曼荼羅に描かれるのは,そのうち9■12ケ所の王子にすぎない。ただし,藤代,切目,稲葉根,滝尻,発心門の五ケ所は,古来五体王子と呼ばれて著名なものであったため,曼荼羅には必ず描かれていると言ってよい。王子は,熊野三山の十二所権現などと同様に,それぞれ本地仏が想定されているが,曼荼羅では本地仏に表現されることはなく,童子,老人などほぼ決った姿に表される。筆者はかつて,熊野曼荼羅に表現された本地仏についてその図像を分析し,本山派(聖護院系)の絵画と認定し得る要素を抽出したことがあるが,その際,その考察は本地仏に表されていない図像,すなわち熊野王子や大峯山八大金剛童子には及ばなかった。この稿では,対象を熊野王子に限って,同様の考察を試みたい。先ず熊野王子の本地,そして形像等について考察するに際して参考となるのは,仁和寺蔵の『熊野縁起』である。ー.発心門金剛童子贔灯[,薩:雷儡口顕,面色薄青,左手磨尾,右手棒,黄衣着,石上立,ー.温河金剛童子多羅菩薩恵観僧正顕給,面色赤,着紺衣,右手三胡,左中指ご口岩上王子新羅明神口言旦:::左大臣形,右手磨尾左笏,浄衣蒋最厄,ー.滝尻金剛童子不空覇索慈覚大師顕,黄鉢童子,髪巻上タル形也,左手棒,右手劾持,ー.稲羽々々稲荷形也,ヲ大指二テ捻,-202-

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