鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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③ 近世における瀬戸美濃陶の意匠研究者:名古屋市博物館学芸員野場喜子碗や皿等の,食膳で用いる陶磁器製食器の文様について考える場合,まず思いおこさなければならないのは,日本人が古くから持ち続けてきた食器観である。すなわち,少なくとも平安時代以来,日本には清浄な食器と,清浄でない食器の区別があった。清浄な食器は,まだ一度も使われたことのない新しい食器で,それは一度使われれば二度と使われることはない。白木の膳や土器の碗皿がそれにあたるのであるが,これらの食器は,他のいかなる材質の食器よりも尊いものとされ,神に捧げる食事や,あるいは個人の家において行われる様々な儀式や祝宴等で使われたのであった。客を持て成す場合でも,白木の膳と土器を用いることが,最も客を尊ぶ証左であったのである。一方,清浄でない食器は漆塗のものである。それらは,何度でも使用するがゆえに,外見はどんなに美しくても,尊い食器とはされなかった。これら漆塗の食器は,漆の塗り方の程度によって,上質なものから粗末なものまで様々であったが,庶民の日常の器としては専ら粗末な塗物の碗皿が使われたのである。中国から舶載された青磁や染付の食器は,一部の裕福な人々の間で,日常の器として使われることはあった。しかしそれらの人々の間でも,専い客を持て成す時には,土器を用いたのである。青磁や染付磁器がどんなに高価で美しくても,それらを使って儀礼的な宴を催すことはなかったのである。以上のような食器観が,恐らくは我国における釉のかかった陶磁器製食器の発達を著しく遅らせる原因になったのであろう。庶民には,粗末ながら塗物の器がある。裕福な人々は中国製品を入手することが出来る。改った席に招く客は土器で持て成すというのであれば,陶器の入り込む余地はない。鎌倉時代から室町時代にかけて瀬戸で焼かれた製品の中でも,碗や皿が少ないのは,このような事情によっているのではないだろうか。釉のかかった陶磁器製の食器が,客を持て成すために使われるようになるのは安土桃山時代になってからである。当時日本に滞在したルイス・フロイスは,その著『日本教会史』の中で,信長が食器についての古い習慣を止めて,格式張らない宴席で,釉のかかった中国製や日本製の陶磁器を使い出したと書いている。-14-

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