鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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がふさわしいと認めたからであろうか。また王子は,仏教のKumara,Kumarakaにあたる。すなわち童子を意味しており,これも又王子を童子形に表す根拠となったのかもしれない。では現存する熊野曼荼羅の王子像は,先行する他の仏教図像と関係があるのであろうか。童子を表した例としては,不動八大童子,弁財天十五童子,三十六童子など多々あるが,それらと比較して,幾分かの関連性が認められるのは,王子の中の切目金剛童子や滝尻金剛童子の姿と不動明王の脊属である制托迦童子との関係においてである。稲荷大明神は通常よくみられる形である。新羅大明神は,先行する作例としては,三井寺の木彫像と画像が知られているが,それらは同じ異相の老人姿ではあっても,被りものや持物が異っている。結論としては,現存する先行作品とはあまり図像的な継承性は認め難いと言えよう。かつて本地仏の図像的な継承関係を検討した際に,石田尚豊氏の説をふまえて,愛染明王が円珍請来の天弓像に表されていること,錫杖をもつ薬師如来や頂上で二手を組む千手観音が唐より請来された,日本ではやや珍しい図像であること,役行者が蔵王権現に向かって歩く姿をとるのは,聖護院系の峯入りを示していることなどを根拠として,①の聖護院本等を本山派系の作品として認定したが,では今回の王子の図像をもって,本山派との関連を云々することはできるであろうか。積極的には無理である。ただ先の『熊野縁起』の記述の中に金剛童子の名がしばしば見られ,又現存する作品の王子像のわきにやはりしばしば金剛童子の名が冠されていることに,三井寺の秘法である金剛童子法との関連をみることは可能ではなかろうか。三井寺は熊野の地を修験所とした。その道筋の多くの王子に金剛童子を祀ったという事実に,本山派との関連がうかがえるのではないだろうか。-206-

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