てデビューしたものと推察される。その後,北尾重政の門弟三羽烏として北尾政演(山東京伝)や窪俊満らとともに明和から寛政そして文化・文政期とつづく当時の江戸出版界において画をもって一大シェアーを占めたのである。さて意斎こと北尾政美は,この安永七年の『小鍋立』を皮切りに寛政末年までは黄表紙を中心に,また寛政期からは往来物や「略画式」のような画手本など三百五部の版本の挿画を描いており,その刊行は意斎の没した文政七年(1824)三月二十二日以降もつづいた。その中のいくつか,たとえば『人物略画式』や,摺物の「江戸名所之絵」などのようにかなり重版された後期の作品が鍬形氏蔵板となっていることは,慧斎の老後の経済の問題であろうか。あるいは,版本の所有権の近代化の萌芽とみるべきであろうか。検討は後日を期したい。また意斎筆の肉筆画は現時点で四十三点を数え,錦絵や摺物は田中達也の挙げた百十五点をもっと越えるものと思われる。惹斎の肉筆画では,写本がいくつか作られたことが一つの特長であろう。さて,安永七年に村田屋から刊行した絵入り咄本『小鍋立』から嘉永四年に刊行された画手本『慧斎略画式』までの恵斎が筆をとった挿画版本の一覧表(「津山藩抱え絵師鍬形惹斎紹真の研究序説」『調布日本文化』創刊号)を今回補訂し,年次ごとの刊行部数を一覧表に作成したく表1>。これをみると,安永七年は一部で,その翌年は作品が未表出。そして安永九年に五部,翌天明元年に十部にはじまり,天明三年には一年間に二十五部を手掛け,その量はこの天明三年をピークとしてゆるやかに下がるものの寛政六年ごろまでは年に八部以上十部から二十部台を行き来しているのである。この天明元年から寛政七年の十四年間(惹斎こと北尾政美が十八歳から三十一歳の期間)に二百十二部の版本挿画を描いていることになる。さすれば,この期間の版本挿画は年平均に約十五部となり,黄表紙は通例三冊本であるから,大雑把にみて三百近いカット画を年に手掛けたものと推察される。天明三年では五百近いカット画を描いたことになろう。いかに売れっ子であったかがしのばれる。なお,すでに初期の版本挿画に,とくに面貌描写などに悪斎の画風の特色が見られ,懇斎画風の確立を考えると興味深い点である。さて政美の画号や画流のことであるが,天明元年の『夢想大黒銀』に「北尾門人」とある他は『初夢宝山吹』などの七部の黄表紙に「北尾政美」とあることから,天明元年の早い頃に北尾重政門人として本名の「三二郎」から師匠の「重政」の一字「政」-208-
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