鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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を付けた「政美」の画号を貰い,また画流の北尾姓を名乗ることが許されたものと思われる。以来,天明五年(1785)刊の「江都名所図会」(初摺本の八木本や三井文庫本)に「北尾惹斎政美」と「惹斎」の号を挟んで用いる以前には,版本ではすべて「北尾政美」の号を用い,肉筆画でも天明五年までは「北尾政美」か「北尾三二郎政美」の署名となっている。従来「意斎」号の使用については,政美が寛政六年(1794)に津山藩松平家御用絵師として召し抱えとなった以降に用いたように言われてきたが,それより十年も遡って「慈斎」号の使用がここに認められた。また天明七年の黄表紙『源平軍物語』『絵本都の錦』,寛政元年の『(海舶)米禽図彙』,寛政二年の『絵本武隈松』,寛政五年の『登阪宝山道』『伊賀越乗掛合羽』『絵本将門一代記』にも,寛政六年以前の刊行にもかかわらず「北尾恵斎政美」とか「患斎政美」の署名が認められる。「態斎」の号は,師の重政が「紅翠斎」,また同門の政演(山東京伝)が「葎斎」と号したことにも関係があるものと思われる。重政が「くれない(紅)・みどり(翠)」の意味,すなわち画を描くことをあらわす「丹緑」に通じる号,政演が「むぐら(葎)」と政美が「かおりぐさ(慧)」というように相弟子がともに「草」に通じる字である。安永・天明期の俳諧大流行を視野にいれると「悪斎」などの北尾派の「斎」号は俳号かなにかの雅号とみてよいようである。「惹Jは蘭の一種で,『長洲志』に「惹斎居士」として「宋の人,胡夫人。平江の胡元功の女。呉江の黄由の妻。書・画・詩文に長ず」とあり,「悪斎」はこの「恵斎居士」から採ったものか不明であるが,北尾政美が薫りたぐわしい佳人であり書画・詩文に長けていた人物をなぞらえたものであろうか。さて患斎の版本活動を版元別に調べたのがく表2>である。これを見ると,十五歳での最初の版元村田屋治郎兵衛は,安永七年から寛政元年にかけて二十部を刊行している。もっとも政美の本を出しているのは,蔦屋であり三十九部という多さである。つづいて鶴屋の三十三部,西村屋と西宮新六のそれぞれ二十五部,そして村田屋への順である。この一覧表を見ていくと,年次を追って版元が増加していっており,政美が売れっ子の挿画絵師となっていく様子が読み取れる。しかも江戸の版元の大手である鶴翡ぶ西村屋,和泉屋,須原屋などと深い関係をもっていることは政美の当時の評判を物語るものであろう。政美の共作者ともいうべき黄表紙の作家では,北尾派同門の政演(山東京伝)や俊満(南陀伽紫蘭)をはじめ,芝全交,伊庭可笑,市場通笑,桜川杜若,四方山人(大-209-

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