田蜀山人),南柚笑楚満人,黄山自惚,元杢網,万象亭(森島中良・竹杖為軽),恋川好町(鹿津部真顔),二本坊の霜志芸,山東けいこふ(鶏告),樹下石上,唐来参和,曲亭馬琴など舒々たるメンバーであった。さて,態斎の俳諧世界との関係を物語る作品が先述した「江都名所図会」である。この「江都名所図会」は藍摺を基調とした淡彩の小判で細長い摺物で,調査したかぎりでは,八木本の折本帖仕立てが一つ,その他の三井文庫本・中野本・喜多本・福生市立郷土資料館本は巻子本仕立てとなっている。この巻子本も精査すると折り跡が認められ,かつては折本形式であった可能性が高い。「江都名所図会」の絵半切れ的な性格を考慮に入れると,当初は表紙を付けない簡易折本であった可能性もある。この「江都名所図会」は,江戸の名所五十景とそれぞれの名所に江戸雑俳の点者夢仏の撰による俳句六十九首と漢詩二首を付したものである。そして天明五年(1785)八月に上梓されたこの長大な摺物に惹斎か江戸の名所地五十景を描いており,その中の十景(上野・両国橋・羅漢寺・日暮里・日本橋・隅田川・品川・浅草寺・飛鳥山・蓬莱宮〔江戸城〕)はたいへん横長な構図となっている。そしてすでに「江戸一目図屏風」や「江戸名所之絵」あるいは『略画式』などの鳥眼図や構図の原型がここにうかがえるのである。また奥書による肩書「東都掘止街杉祠頭」から,天明五年時点で恵斎は江戸の堀留杉森新道に住んでいたことが判明した。この「江都名所図会」は,その他さまざまな意斎の作画活動を示唆するものが含まれているが,引きつづき研究課題としたい。寛永寺所蔵の「黒髪山縁起絵巻」は,江戸前御畳大工頭中村弥太夫こと中村仏庵が苦心して得た日光出士の盆石を「黒髪山」と松平定信が名付けた由来などが絵詞で表現された絵巻で,十五枚の画を恵斎が描いている。その中には,松平定信の屋敷で盆石「黒髪山」を移す谷文晟の姿や,仏庵と親交をもった山中高陽・加藤千蔭・村田春海・平沢旭山・三島自寛・六如・大典・柴野栗山・市河寛齋らの文人墨客の姿を描いており,残された他の彼らの肖像画と比べても実にリアルな描写となっている。その第十画の「築地御館総図」には,「紹興J印の他に「大漏翁」と読める印が捺されており,珍しい慧斎の印章である。この「黒髪山縁起絵巻」は,政美の出自の畳屋に係わる江戸城御用達の御畳大工頭の中村仏庵の依頼による作品で,仏庵のみならず,こうした職人頭との交流も罵斎の活動範疇であったものと考えねば理解できないことである。ちなみに寛永寺にはこの松平定信命名の「黒髪山」の盆石そのものが伝存する。最後に大英博物館所蔵の「遊女と禿図」(Courtesanand Attendant)を紹介する。-210-
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