『日本教会史』に記されている日本製の陶器とは,志野や黄瀬戸を指していると思われるが,これらはその意匠から,生産の当初は中国製の青磁や染付を写そうとしたものであり,その後の過程で,日本の食生活に合うような独自の器形と文様を生むに至ったことがわかる。決して当時の漆塗の器の形や文様を引き継いで,陶器の食器を作り出そうとしたのではなかったのである。中世から近世にかけての漆塗の食器については,最近の発掘調査により,神奈川県の鎌倉や,広島県の草戸千軒町遺跡,愛知県の清洲城跡等から,多数の遺品が出土している。それらの食器の文様を見ると,皿であれば,見込の全面に花や鳥を散らすものが多いように思われる。丸い皿の円の中心や輪郭をあまり意識していないのである。一方,中国製染付磁器の皿は,元時代から皿の表面をいくつかの同心円で区画し,中心部には水禽文や花篭文を,周縁には唐草文を巡らす施文法を,明代を通して採用してきた。志野の丸皿や伊万里の染付の皿はこれら中国製品の施文法に倣っているのである。志野や伊万里が日本の漆器の文様ではなく,中国製品の文様に倣ったのは,それらが,漆塗の食器に替わるものとして登場したのではなく,高級食器としての中国製品の代替品を目ぎしたものであったからなのである。志野や黄瀬戸に遅れて生産の始まる織部も,当初は中国南部で焼かれた交趾に倣ったものであった。その後,故意に形を歪ませた抹茶茶碗や扇形,千烏形の向付等,斬新で独創的な食器の数々を生み,茶会に集う人々を大いに楽しませることになるのである。この織部の文様については,当時流行した辻が花から多くを借用したものであることが指摘されている。円形ではない食器を作り出したことは創造であったけれど,文様については模倣であったのである。食器の文様を,食器以外のものの文様から借用して描くという方法は,次に続く肥前磁器にも引き継がれたように思われる。肥前磁器のージャンルである古九谷の文様も,寛文小袖や襖絵,螺細の文様等々から借用したものが少なからずあるという研究もある。しかし,食器の文様を他の製品から借用するという方法は長続きはしなかった。織部の食器は茶会という特殊な会食の時に用いるもので,機能的であることよりも,目新しいことが求められたのであり,古九谷の大皿は,食器として使うというよりも,装飾品であったのではないかと思われるのである。このような場合には,料理を引き立てる文様であることよりも,文様自体が目を引くものであることが求められるであろう。奇抜で楽しく,豪華なものが良かったのである。しかし,機能的な食器-15 _
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