鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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おらんだらでん⑯ 近世日本陶磁・漆工にみられる西洋絵画の受容と変容について研究者:神戸市立博物館学芸員本稿は,まず江戸時代中〜後期(18■19世紀中期)における日本製輸出漆器のうち,新発見資料を中心にその位置づけを行う。とくにヨーロッパ製銅版画に基づいて加飾された西洋画という観点から,漆工芸の洋風表現の受容状況を検討する。続いて,日本国内の「阿蘭陀趣味」にあわせて,江戸時代後期の京都で制作された陶器「京阿蘭陀焼」の新出資料にふれ,そこに描かれた西洋風景を検討し,美術史的位置づけを試みる。蒔絵と,時として螺細を併用した日本製の漆器は,16世紀末葉から来航した主にポルトガ}碍似)ゞ持ち帰る高級な土産品として注目されていた。しかし,17世紀初頭以降,オランダ船,イギリス船が交易に加わり,これに応じて漆器の販売量も増加していったと推定される。こうした西洋人向けの輸出用漆器は,高台寺蒔絵と呼ばれる蒔絵調度を制作していた数十人もの職工を抱える京都の町蒔絵屋を中心に制作されたと考えられている。このような17世紀の輸出漆器は,器形や余白を文様で埋めつくす加飾の仕方などヨーロッパ人の注文をとり入れて制作されているが,意匠の細部モティーフはほとんど純日本風の花樹や秋草などであった。このことは,中国・景徳鎮民窯の17世紀前期の輸出磁器が,器形や図様構成でヨーロッパ,あるいはイスラム圏の購入者の好みをとり入れながら,文様は道教的吉祥文であったことと似通っている。これは,本稿で検討する銅版画によるヨーロッパ風景や肖像画を,蒔絵に写しかえるという新味をねらった18世紀末葉の長崎製輸出漆器と大きく異なる点であり,時代の推移を物語るものでもある。鎖国の完成によって,オランダが日本の対ヨーロッパ貿易を独占することになったが,漆器の交易はオランダ東インド会杜(V.O.C.)にとって重要なものではなかった。確かに日本の輸出用漆器はV.O.C.の依頼で,京都において,おもにインド諸地域の諸侯や,ヨーロッパの富裕階層への贈り物あるいは特注品として,変わらず制作されていた。しかし,17世紀後期に至ると,日本での漆器の仕入れ価格が上がり,逆にV.漆器は消えてしまうのである。その後,日本製漆器は,長崎・出島の商務員が商館長18世紀の輸出漆器O.C.の利益が減少したため1693年以後は,V.O.C.の販売した商品リストから日本製岡泰正-214-

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