きじ1787■88年に,先の肖像プラークに比べて大型の「蒔絵ペテルブルグ風景図」が制作の江戸参府の際に,京都の漆器工房に通詞や代理人を通じて注文することで,わずかながら私貿易品(編裔)としてヨーロッパにもたらされた。こうした私貿易品を依頼していたオランダ人の進取的精神が,漆器の全く新しいタイプ,すなわち漆器にヨーロッパ風景や肖像図を加飾させたユニークな作例を生み出す重要な役割を果たしたのである。記録によると,1779■80年と1781■83年まで出島の商館長を勤めたイサーク・ティチング(IsaacTitsingh)が,出島から去った後の1789年,日本から「漆塗りによって制作された美徳を表現した絵画」を送られている。ティチングは商館長の中では並はずれた日本通であり珍品の収集家でもあったことから,彼が漆で西洋絵画を表現するという大胆な試みを行った牙1の人物ではないか,と推測されている。確実な例は,ティチングのわずかの後,1785■86年まで出島の商館長であったファン・レェーデ(vanRheede)が,フリードリヒII世の肖像を表現した2点の長円形のプラーク(plaque飾り板)を所有していたことである。その類似品が伝存しており,銅板に黒漆を焼きつけ,そこに漆絵と螺細(長崎でいう青貝細工)によってフリードリヒII世の横向きの肖像を表現している(図1)。これは技法や様式から判断して,長崎の漆器工房で制作されたことが明らかである。つまり,17■18世紀中期頃までに制作されていた京都製の漆器とは全く産地や様式,生地の材質までも異にしているわけである。さらに記録から,1787■88年に出島に在留したスウェーデンの医師,J.A.スツッツェル(J.A. Stutzer)が長崎で漆器制作者に「原画」を渡して模写させたことがわかる(高野明「+八世紀の日本工芸品『ペテルプルグ風景』」『日本歴史』213号)。スツッツェルの言葉によると,「聖ペテルブルグ風景」と「馬上のルードヴィヒ15世」の原画を示し,日本人に漆で模写させたのは,彼が最初であると言う。また彼は「海の合戦図」も依頼したとも述べている。これが事実とするなら,ファン・レェーデが長崎の漆器工房に「フリードリヒII世の肖像」を依頼したと推測される1785■86年の直後のされたことになる。スツッツェルは,同蒔絵プラークを,エカテリーナII世へ献上し,これを1795年クンストカーメラヘ下賜している。つまり,この蒔絵プラークが,長崎製のヨーロッパ風景を加飾した作例の最初期に位置することになる。筆者は,このプラークと全く同一と思われるヴァージョン(類似作品)を見出し,観察した(図2,-215-
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