⑰uvre, ses ecrits, Gallimard, 1946, pp.187-188)。この手紙の冒頭でグリスは,同年下C255と略記],図1)は,問題の演繹的方法の形成を考える上で,時期的にも内容的17, 18年に制作された約50点もの作品からなる大規模な個展で,おそらくグリスはその86%に当たる175点が静物である。とくに1915年は34点の作品全てが静物であり,新らの次の証言である。「しばらく前から私は自分の仕事に不満を感じることがなくなってきました。なぜなら私はついに実現(realisations)の時期に入っているように思えるからです。別の面でもこれまでの進歩を確信したのです。というのは,以前は絵に取りかかる際,始まりは気に入っていても,結果はがっかりしたものでした。今では始まりは見映えが悪く嫌気がさしても,結果は目のさめるほど快調なのです。また絵から粗野で説明的すぎる現実も取り除けるようになりました。絵はいうなれば前よりも詩的になったのです。いつか全くむだなく精神の純粋な要素でもって想像的現実を表現できるようになれたらと思います」(D.-H. Kahnweiler,Juan Gris, sa vie, son 4月にレオンス・ローザンベールの画廊L'EffortModerneで開かれた自らの個展について触れ,「大ぜいの人が来て」「まずまずの成功」だったと伝えている。それは1916,の会場で自らの「進歩」と方法をはっきりと自覚したのであろう。とすれば,演繹的方法の形成はまずこの時期に想定してさしつかえあるまい。カーンワイラーは,グリスの分析から総合への移行は,コラージュとパピエ・コレの矛盾,つまり外的な事物が絵画空間に介入することによる作品の整合的な統一性の阻害を解決するものだったと示唆している。グリスがコラージュから離れ,油彩の単ーメディアに回帰するのは1915年である。われわれが設定した1915年から19年という時期区分は,以上の理由によっている。この5年間にグリスは203点のタブローを制作している(D.Cooper,Juan Gris, Catalogue raisonne, 2 vols, 1977)が,そのうちしい統一的方法を探究するためになじみの静物モチーフに集中したことを示している。これに対し,1918年は全43点中,31点(72%)が静物であり,疎開先のトゥレーヌ地方のボーリューでの新しい風景やモチーフとの出会いが反映されている。ちなみに,戦争中にもかかわらず,スペイン国籍のために兵役を免れたグリスの制作ペースは,この時期の前も後もさほど変らず一定で,このたゆまぬ歩みと「方法」の錬磨が,グリスをして戦後の「秩序への回帰」と「純粋キュビスム」(アンドレ・ロート)の旗頭にしたのである。静岡県立美術館所蔵のく果物入れ>(1918年3月,Cooperop. cit., No.255[以-224-
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