ったと推定されている。東方触地,北方体側仰掌とする例には,彩画本以外では金剛峯寺の板彫胎蔵曼荼羅二面,また胎蔵図ではないが竜光院の屏風本尊があり,板彫図は8世紀作の請来品,屏風本尊は請来品をもとにした10世紀の作とみられている。こうした作品が高野山に伝存するからには,東密においても,東方仏を触地,北方仏を体側仰掌とする胎蔵図が描かれる可能性があったことは否定し得ない。しかるに東密系の彩画遺品は確認されておらず,台密系のみに限られるのは,それが請来品の影響ではなく,台密の阿闇梨独自の発案になることを示唆してはいないだろうか。こうした観点から注目される文献史料が,『祖記雑篇』(智証大師全集巻下)である。『ネ且記雑篇』は行順(1265■1333)の『行次抄』および最珍(1143■1219)の『大日経義釈紗』が引用する円珍の諸記録を集めたもので,四箇条からなるが,そのうち彩色曼荼羅之事条と胎蔵八葉東方仏位之事条に,円珍が所持していた彩色両部曼荼羅の記事がみえる。この史料はすでに佐伯有清氏がとりあげているが(「円珍と上毛野滋子」日本歴史510),台密系胎蔵図との関わりには言及していない。これによると円珍が所持していた彩色本は,上毛野滋子(?■897)の発願になるもので,藤原明子(829■900)発願の彩色本とともに,大法師仁賛によって描かれている。また円珍は滋子発願本および明子発願本の胎蔵図における東方仏の印相を決定するに際し,明子本は胎蔵図の旧例にしたがう一方,滋子本には曇誤底阿閣梨なる人物の説を採用している。曇誤底説とは胎蔵四仏の各尊に,金剛界の同方位の仏を各々対応させ,両者の像容は同じとするものであったらしい。つまり本来性格を共有する西方仏は措くとして,まったくの別尊である<東>宝瞳と阿閃,<南>開敷華王と宝生,<北>鼓音と不空成就を各々同じ像容とし,金剛界四仏の図像を胎蔵四仏に適用したものである。しかし円珍が胎蔵図の旧例を検したところ,曇誤底説と異なり,東方仏は不空成就の像容,北方仏は阿閃の像容であり,しかも旧例の図像は中国・日本を通じて継承されたものであった。そのため明子発願本は旧例にならったが,滋子発願本の場合は曇誤底説にもとづき,東方仏を阿閃の印である「垂腎触地」,北方仏を不空成就の印である「施無畏」としたのである。つまり円珍は滋子発願本において,旧例では北にあった阿閃の像容を東に移し,東にあった不空成就の像容を北に移したことになる。換言すれば旧例の北方仏と東方仏-241-
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