測している。また持明院・観音院•最外院の諸尊に認められる現図との相違が,かえ(1143■1213以降)が胎蔵図像中の一尊である馬頭明王の図像に付した註記には,「前の座位を交換したのである。このように現存する台密系諸本の特徴,すなわち現図東方仏と北方仏の像容交換の先例がこの滋子発願本にみられ,しかもそれが円珍所持本であったことは,きわめて興味深いというべきであろう。ところで佐々木進氏は,胎蔵図像の東方仏が台密系諸本と同様に触地印であることに注目し,台密系の四仏配位は胎蔵図像から現図へと至る過渡的様相を示すものと推って胎蔵図像や胎蔵旧図様との共通性となっていることから,それらは「現図曼荼羅そのものの成立期の混乱ともいうべき現象」であり,四仏配位もそのひとつとする(「近江・芦浦観音寺の両界曼荼羅図」仏教芸術163)。しかし胎蔵図像から現図に至る間に,胎蔵旧図様が存在することを無視できない。胎蔵旧図様の四仏の印相は,基本的な手勢は現図と共通するものの,南方仏が右手を胸前に立てて掌を前方に向け,北方仏が左手で衣の端を握るところに現図との相違が認められる。また着衣形式においても南方仏を通肩ではなく偏祖右肩とする等の相違があるが,こうした相違は,現図成立によって図像が固定化される前段階の様相ととらえられよう。一方,四天王寺本等の四仏を,方位によらず印相の共通性を介して現図の四仏と比較すると,表現形式は印相・着衣ともにほぼ一致しており,この点は台密系諸本の制作時期を考慮する必要はあるものの,やはり看過し難い。台密系四仏の特徴は,胎蔵図像からの変化というよりも,すでに固定化した現図四仏の図像をもとに,その配位を改変したにすぎず,その改変が円珍によってなされた可能性は,先にあげた『祖記雑篇』の記事からきわめて高いといえよう。但し,円珍が東方仏を触地印となし得た背景として,やはり胎蔵図像の存在を無視することはできない。胎蔵図像は円珍請来とされているが,『覚禅紗』巻第四十六(大正図像4)で覚禅唐院唐本」からの写本に拠った旨が明記されている。また長宴(1016■1081)の『四十帖』巻第四(大正蔵75)では「前唐院本」の四仏は金剛界四仏と同じ像容だと述べられていること等から,円珍ではなく,円仁の請来とすべきと考えられ,円仁請来の胎蔵図像が東方仏を触地印としているという事実は,円珍が触地印の北方仏を東方に-242-
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