④ 平安末期における旧派仏師の新様への模索研究者:群馬県立女子大学文学部助教授麻木脩平はじめに彫刻における鎌倉新様式が,十二世紀半ばころから一部の奈良仏師によって形成されはじめ,やがて康慶・運慶らによって確立されるプロセスは,近年かなり明らかになってきたと言える。しかし同じ時期の京都の院派や円派仏師の様式が,どのような展開をたどったのかについては,従来必ずしも明確とは言い難い状況にあった。それは明円作の大覚寺五大明王像を除けば,十二世紀後半の名の知られた京都仏師の遺作が特定できない,という事情によるところが大きい。ところが最近,長講堂阿弥陀三尊像(図1• 2 • 3)が院尊作である可能性が高いと言われるようになった。もしこの像が院尊作であることを立証できるならば,京都の旧派仏師の様式展開を考える上で,極めて重要な手がかりが得られることになる。平安末期の造仏界にあって最大の勢力と名声を獲得し,京都仏師の総帥とも言える地位にあったのが院尊だったからである(注1)。さらに注目されるのは,この長講堂阿弥陀三尊の両脇侍像が片足踏下げという,平安末期の仏像としてはかなり珍しい形式をとっている点である。この形式は,仁平元年(1151)造立の奈良・長岳寺阿弥陀三尊(図4• 5 • 6)の両脇侍像のそれを,直ちにわれわれに思い起こさせる。いったい長岳寺像,もしくはそれに類似する奈良仏師の作品から,長講堂像の作者は影響を受けたのであろうか。それとも京都仏師の中にも,独自の古典研究の動きがあったのだろうか。しかしそれならばなぜ京都仏師は,慶派と異なる独自の鎌倉新様式を確立することができなかったのか。本研究はこのような問題意識のもとに,京都の旧派仏師の中の新しい様式への模索の動きを,長講堂阿弥陀三尊像を中心として多面的に検討し,これを藤原一鎌倉彫刻史の上に位置づけようと試みるものである。1.長講堂阿弥陀三尊像の制作年代と作者京都市下京区本塩竃町に所在する長講堂は,後白河法皇の御所であった六条西洞院殿(以下「六条殿」と略称)内に営まれた持仏堂・長講堂の後身である。現所在地は当初の寺地から少し離れてはいるが,創建時の本専と見なされる阿弥陀三尊像を今に伝えている。長講堂の創建を明記する同時代の史料はないが,後白河法皇が六条殿に-18 -
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