移すにあたり,有力な例証となり得たと思われる。胎金四仏が同じ像容であるという説は,東密の元果(914■955)の『胎蔵界三部秘釈』(大正蔵78)にみえ,また『祖記雑篇』によれば宗叡(809■884)もまた東方仏を触地印とする説を支持していたという。しかるに東密の遺品に東方触地の例が見出せないのは,北方触地の空海請来本という絶対的な祖本が存在したためであろう。一方,台密の場合,円仁が長安で入手した彩色本は会昌の法難に遭遇して焼却され(入唐求法巡礼行記),結局円仁は彩色本を請来することはできなかった。また円珍請来本も帰朝後ほどなく宇佐大神宮寺に送られ,その消息は円珍自身「恐今不存欺」と述べるように(祖記雑篇)早くに不明となっている。台密系遺品の四仏配位の特徴は,円珍個人の発案によるものだが,胎蔵図の中核たる中台八葉院の図像に対してこうした阿闇梨の意楽が加えられ,それが台密内部で継承された背景には,祖本となり得べき権威ある作品,すなわち請来本そのものが台密内部に伝えられなかったという事情があるのではなかろうか。中台八葉院の四仏配位のみならず,他の諸院にみられる台密系図像の特徴も,こうした観点から改めて見直す必要があると思われる。-243-
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