⑬ 形態の重なり合いと奥行きの問題ー後期カンディンスキーの造形語法研究者:東京国立近代美術館研究員中林和雄キャンバス上に例えば正方形を描くとする。あるいはそれは三角形でも円でもよく,要は閉じた線によってその輪郭が明瞭に限定され,ある完結した平面を表しているような形であればよい。それが2つ3つといった少数の場合,各々をそれぞれ独立させ,境界線が交錯することなく画面上に配置することができるだろう。けれども要素の数が増えてきた時には,画面構成上個々の境界線はどこかで交わらざるを得なくなり,要素間での干渉が生じる。その場合の解決は2つに大別される。要素AとBが交錯するとき,一方を他方に従属させ,重なり合う部分ではAの輪郭線のみを描き,BのそれはAの「後ろに」あるため陰になって見えない,とするのがひとつめの解決である。この方法は従来の再現的絵画ではほぼ唯一の選択肢であったし,一般的な視覚体験においても,距離を把握する大きな拠り所のひとつとしてある。しかし,今世紀初頭1910年代以降の絵画の多くにおいて,これとは異なる解決が試みられた。即ち,要素Aは要素Bと重なるが,それによって一方が他方をおおいかくしてしまうのではなく,重なり合う領域でも各々の要素の輪郭線は明瞭に連続したまま,透明な2つの面のように描写されるのである。そこでは前後の関係は定立し得ず,重なり合いが奥行きの知覚を喚起することがない。閉じた平面AとBは各々明確な境界線によって自足した単位としてありつづけている一方で,重なり合った領域はAでもなくBでもない第3の要素Cとして,これもまた閉じた輪郭線を備えた平面となる。色付きのガラスを重ね合わせて,光を透過させて見るようなこの効果によって,各々の対象はひとつの閉じた面としての統一性を保持しつつ,一方では逆に他の対象に浸蝕され透き通るという,相反する二傾向を併せ持つことになる。対象相互間の分節を画定しつつ,その「位置関係」をも一義的に措定していくという視覚の常道はここではあっさりと破棄され,眼は曖昧さと複雑さのうちで落ち着き所を見出せない。この絵画上の手法は些細なことではあるが,今世紀前半においての極めて広範囲にわたるその流行ぶり,そして特にカンディンスキーの後期の作品中での徹底した用いられ方を考えるとき,考察の具体的な足がかりとして有効な視点と思われる。この方法が絵画の中に現れはじめたのはキュビスム以後のことである。キュビスムの絵画は基本的に再現的ではあったが,対象を解体し,それを多面的に表現するとい-258-
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