は,それ程システマティックに一貫してではないが,今検討している手法がやはり随所に用いられている。ロトチェンコの場合,1920年以降,効用主義的芸術へと向うロシア・アバンギャルドの流れの中で絵画を否定し,写真,ポスター等の領域へと活動の場を移していったことからもわかるように,カンディンスキーのような根っからの画家とは言いにくい面があり,その絵画作品も,作例の少なさは別としても,何らかの構成上の概念を図解する透視図のような側面を持っている。しかし,彼にはじまる,それこそ定規とコンパスによるようなシャープな輪郭線を持つ要素による絵画が,モホリ=ナジあたりを通して後のヨーロッパの絵画の展開の内へと流れ込んでいくわけであり,彼によって,従来の絵画に根強くつきまとっていた様々の形での象徴主義的色合いが明快に排除された点は興味深い。絵画が各々の時代から養分を吸収し存続していくものであるとするならば,ロトチェンコのように絵画と絵画外の境界にいる人がその仲介役を果たすのではないだろうか。マレーヴィチのシュプレマティスムの絵画は透明な浸透という方法を決して採用しない。彼は様々な大きさの四角形をいくつも画面に描き込むのだが,それらの間で重なり合いが生じると必ずそこに前後の関係を定めているのがわかる。要素Aの「後ろ」にある要素Bは,Aの陰になって見えないため,その輪郭線は分断され,あるのに見えないという知覚の約束の秩序に従う。この時期他の多くの画家たちが多かれ少なかれ用いていた透明な面の重なりというヴィジョンにマレーヴィチは敢えて背を向け,いわばネガティヴに関心を表明しているといえよう。又,それと同様なことはやや後年のオランダの新造型主義の絵画についても指摘することができよう。ロシア時代(1915■21年)以降カンディンスキーの作品はそれ以前のアモルファスな色斑と自由な曲線群による絵画から,明瞭な輪郭線を持つ色面が多数描き込まれた絵画へと大きく変化した。そしてこの変化と軌を一にして,今検討している透明な浸透の方法がさかんに用いられはじめる。この2つの変化の背景に,ここまで見たような構成主義的傾向との身近な接触があったことは疑い得ないし,科学の力を信じ,それが芸術を含めた人類の未来全般に明るい展望を開くはずだという信念においては,カンディンスキーと構成主義者たちは一致していた。しかし,もちろんカンディンスキー自身は構成主義的傾向の積極的な推進者であったわけではなく,特にその効用主義的,芸術否定的な側面に対しては常に一線を画していたことがよく知られている。相違を最もはっきりと示すのは,タブロー絵画という形式に対する態度の分れ方であ-260-
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