る。ロトチェンコやモホリ=ナジらにとって伝統的なタブロー絵画は,20世紀という新しい技術の時代にあってはやがて死にゆくもの,あるいは既に役割を終えたものとしてとらえられていた。それに対して,カンディンスキーやクレーにとっては絵画とはそのような同時代的制約から免れてある,普遍的ななにものかとして追究されるべき,いわば自已目的であったと言えるのではないだろうか。ロシアを去らねばならなかったのも,絵画観のこの根本的な食い違いが理由のひとつとされている。カンディンスキーはシャープな輪郭の幾何学的形態を用い,それらを互いに透明に浸透させるという構成主義の典型とも言える方法を積極的に取り入れ,同時代への共感的な姿勢を示しつつも,その核心においてはむしろ極めて伝統的な意味での画家としての立場を堅持しつづけた。しかしカンディンスキーは構成主義者の手法を表面的に借用した,ということではない。彼にはこのような絵画をしか描けなかったのであり,それはまさしく彼のいう「内的必然性」から生じてきたものなのである。普遍性を持った絵画というのは抽象的な理念なのであって,一個一個の物的存在としての絵画作品には否応なしに具体的な何かが描かれねばならず,その意味でそれは極めて歴史的な存在である。そこで問題なのは時代に規定される様式に拠りながら時代を超えることである。同時代的な共感のうちに生じなかったものは決して普遍性をも獲得しないはずであって,カンディンスキーの作品が単なる構成主義の借用に過ぎないものであったとすれば,今日の我々に対してこれほど迄に強く訴えかけてこようはずもない。透明な重なり合いの手法が最も頻繁にシステマティックに用いられたのは,いうまでもなくバウハウスにおいてである。カンディンスキーに加えてモホリ=ナジ,クレー,ファイニンガー,シュレンマーといった教授達や学生の作品においてこの方法はいわばひとつの共通語法として前提されているかの様だ。モホリ=ナジはその最も意識的な推進者であり,単一の視覚体験のうちに対象のいくつもの局面が互いに透明性を持って浸透し合うこのヴィジョンを近代的な体験の表現として提唱し,絵画写真,フォトグラム等においてその実現を目指す一方,著述によってその理論化を試みた。クレーの言うポリフォニーの概念は,別々のものの同時的でしかも対等な並置,そこから生じる曖昧さと複雑さという時代的なテーマを反映しており,作品においても複数の対象相互間での透明な浸透が多く見られる。ただし彼の場合,線描家としての卓越性が常に先行し,線の律動そのものが画面を支配していることが多いといえるの-261-
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