鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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存する阿弥陀三尊の中雌像の作風,とりわけその面相部が,大治5年(1130)院覚作と推定される法金剛院阿弥陀如来坐像のそれに著しく似ているところから,文治4年12月に院尊の造った像が,現存の長講堂阿弥陀三腺像に当たる可能性が大きいと説かれた(注7)。現存する長講堂像を院尊作と推定する点では私も伊東氏に賛同するが,その理由は伊東氏と必ずしも同じではない。氏の文献解釈には若干問題があるように思われるからである。六条長講堂の本尊が二具あったということ自体,確認の史料がなく推測の域を出ないが,仮にそれが正しいとしても,『吾妻鏡』は「本腺奉取出之云々。」と記しているのであり,本淳の一方だけを救出したとはどこにも書かれていない。また『山丞記』も,再建されて供養のなった長講堂に院尊が仏像を据えたと記すだけで,仏像を造立したとか,再興したとは記していないのである。従って文治4年に院尊が現存像を造立したとする伊東氏の解釈は,史料的には根拠がないことになる。確かに,他の場所に臨時に安置していた仏像を,再建された堂に移すだけならば,わざわぎ院尊の手を煩わすまでもないように思われもするが,救出の際に光背や台座,天蓋あるいは仏身の一部が破損する可能性は充分に考えられ,そうしたものの修理も兼ねて院尊が仏像の移動・安置に携わったと解すれば,不審な点は何もなくなる。従って,伊東氏の推論の可能性も全くないとは言えないが,文献を素直に読む限りでは,長講堂創建当初(寿永3年と思われる)の本尊像は文治4年の火災に救出され,その救出された像を再建された長講堂に院尊が安置した,と解する方が無理がない。それならば,現存像を院尊作とする根拠はどこにあるのか。そのひとつの理由は,伊東氏の指摘されたように,現中尊像の面相部が院覚作と考えられる法金剛院阿弥陀如来坐像のそれによく似ている点に求められる。院尊は院覚の子息とも弟子とも伝えられ,この両者に作風の近似があるのは,極めて自然なことだからである。他にも理由がある。先にも記したように,長講堂の創建は痔永3年(1184)と考えられる。その年から文治4年の火災まで,わずか4年しか経過していない。これほどの短期間内におけることならば,救出された本尊像を再建の堂に安置する場合,よほど特別な事情がない限りは,その作業を創建当初の造立仏師に依頼するのが最も自然であろう。ましてやそれが修理を伴うものであるのなら,なおさらのことである。すなわち文治4年12月に院尊が仏像を再建の堂に安置したのは,長講堂創建時の本尊像の造立仏師が院腺その人だったからだと考えられるのである。-20 -

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