鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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3.享保の象と栄川院,仙台侯の画譜もの,そして最後に「有徳院吉宗加筆鷹画草稿」2巻が完成画の前段階の大下図として存在する。ここからわかるのは,生の写生から完成画への過程でつけ加えられるのは,いわゆる花烏画的要素であることだ。特に「有徳院吉宗加筆鷹画草稿」は「徳川実紀」の記述どおりの作例といえる。写実的に描かれた栄川の鷹に吉宗が加筆するのは,定型どおりの雪もち柳の枝であったり,梅の古木であったりする。狩野派の写生が実制作に反映されない理由の最大のものは,実はこのようなパトロンの意志,あるいは趣味のようなものだったといえるだろう。図としてではなく格式をもった絵として存在するために,狩野派の絵師がいかに多くの犠牲を払わなくてはならなかったかを考えると暗溜とする。因に「御鷹生地取」2巻には他にも注目される事象が報告される。一つは堀田正敦の「堀田禽譜」に「栄川院生写いたしところ所写す」として写されている鷹の雛の原画が存在すること。そしてもう一つは,諸大名の鷹の献上に関しての「徳川実紀」の記述に合致する図象が見出せることである。「其後も陸奥守が献上する鷹。他家の鷹に較ぶれば,其形劣れるに似たれども,鳥とるわざのこよなき。他になぞらふべきにあらず」という伊達吉村の献上鷹の姿が写しとられていることである。江戸期になって始めて日本に象が来たのは,享保13年(1728)のことである。吉宗の命により清国の商船が広南からもたらした。この象は翌年,長崎から江戸へ向かい途中京都で従四位に叙せられ,天皇に謁見し五月の末に浜御殿に到着している。象はその後寛保年間まで浜御殿で飼育され,中野村の農夫源助に貸し下げられた翌年死亡した。これを含め象は三度江戸時代に日本に来ている。文化10年(1813)オランダ船が長崎に運んできたインド象は幕府に献上を拒まれて返却され,文久3年(1863)アメリカ船が横浜にもたらした象は両国で見せ物になった。このうち絵画資料が最も豊富なのが,文久の象で多くの錦絵や刷り物になっている。しかし時代を遡るごとに,象の絵は少なくなり享保の象と確認できるものは,非常に少ない。文献資料では「象志」「象乃みつぎ」「訓象俗談」などが享保の象ブームを伝え他の時期を圧倒しているのとは,対照的である。東京国立博物館蔵の「鳥獣鷹象写生」4巻のうち「象生写」はその意味で貴重な作例といえよう。59.7 X 669. 6の法量は鳥鷹獣と紙幅は同じだが,「象生写」のみは仮表装の状態である。ここでは様々な象の姿態が描かれ,象使いの道具も合わせて記録さ-265-

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