4.今後の展望れ,描写は極めて写実的である。浜御殿にいる象をさっそくに生写する御用を命じられた栄川院の姿が目にうかぶようだ。しかもこのうちー図は,後に細川重賢が「珍禽奇獣図」に写している象とまったく同じ形態に描かれている。「珍禽奇獣図」に記された記録には「象(キサ)仙台侯家蔵の図,安永7年4月28日,今村随学写」とあるが,だとすれば「象生写」は仙台侯の写生図の下絵だった可能性も出てくる。重賢時代の仙台侯は伊達重村であるが,享保のころの当主は吉村であり,それは「鷹生地取」で吉宗に鷹を献上した陸奥守その人に他ならない。「徳川実紀」には,吉宗が吉村の子宗村の妻に紀伊宗直の娘で自らの養女とした利根姫を与え,厚遇したことが記されているが,将軍と大名は鷹狩や新奇なものに対する趣向を一つにしていたのだろう。宝暦12年(1762)の平賀源内編「物類品」によれば「讃岐藩主の屋敷で仙台藩主所蔵の草木図譜を見るその数は千種近く,写生の技術も真に迫る」とあるが「象生写」は博物図譜が次々と描かれる宝暦年間より30年も以前にこれらの図譜が存在していたことの証である。ここで強調されなければならないのは,大名の制作する博物図譜の描き手は,大名の最も身近な絵師たち御用絵師,すなわち狩野派の絵師たちであったことである。そして前章ですでに述べたが,狩野派の写生図が本画に生かされないのは,花鳥画としての格式や定型が要求されることであり,逆にいえば図が図として存在しうる図譜においては絵師は再現描写における自らのテクニックを充分発揮することができたことを記しておきたい。さて,これまでの報告で狩野派における享保期の写生の実体と博物図譜の先駆的な試みがなされてきたことは理解されたと思う。今後この方向をおし進めるには,西山松之助氏の提唱する真写文化の系譜における一時代前の作品を検討することが必要だろう。具体的にいえば狩野常信筆「鳥写生図」8巻,「草花魚貝虫類写生図」29巻を調査し,そこに享保期との質的相違が見られるか否かも検討したい。-266-
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