3.京都仏師の中の古典研究の動きいて流れるが(図7)'長講堂像では,背面の腰布の製は上下にゆるい弧を描き,両側面の装に連続せず,背面だけを見ると腰布を巻いているように見えない(図8)。このように比較してみると,長講堂像には片足踏下げ以外の点では,長岳寺像と共通するところが意外に少ないように思われる。なお(2)と(3)に指摘される長岳寺像の特色は,興福院阿弥陀三尊像等の天平彫刻から学んだものと見られ,長岳寺像の(4)(5)の形式は,東寺講堂五菩薩像中の金剛業菩薩像に同一の例が見られる。長講堂両脇侍像における片足踏下げ形式の採用が,長岳寺像のような奈良仏師の作品の影密による可能性がないとは言えないが,積極的にこれを支持するような傍証は見出せない。それでは京都仏師の中に,このような古い形式に注目するような,独自の古典研究の動きがあったのだろうか。管見の及ぶ限りでは,十二世紀後半の京都の仏像の中に,そのような動きを推測せしめる作例は極めて乏しい。しかし全くないわけではない。たとえば峰定寺千手観音坐像(図9)は,久痔元年(1154)の作で,光背・台座や像の装身具にほとんど極限的と言えるほどの細かい装飾が施されており,いかにもこの時期にふさわしい作品であるが,その両脚部には,明瞭な翻波式衣文が刻まれている。この衣文の採用には,峰定寺像が檀像(白檀製)であるということも少し関係しているかもしれない。しかし同じ檀像でも,康和5年(1103)の仁和寺旧北院伝来の薬師如来坐像には,古い檀像の作風を思い出させる要素がほとんど認められなかったことを考慮するならば,峰定寺像における翻波式衣文の採用には,十二世紀初頭とは異なる微妙な造形意識の変化が反映されている,と言えるのではないか。峰定寺像はど明瞭ではなくとも,十二世紀後半の仏像の中には,翻波式を意識したのではないかと思われる衣文表現を見せる作品が散見される。たとえば和歌山・金剛峯寺不動明王坐像,京都・専定寺阿弥陀如来坐像(図10),滋賀・報恩寺阿弥陀如米坐像などがそれである。専定寺像や報恩寺像については,康尚様式への回帰現象と考える井上正氏の説があるが(注10),いずれにしても定朝を遡る古い作風や部分形式に対する関心が,十二世紀半ばころから京都仏師の中にも芽生えはじめた事実は,注意されてよい。そこには,定朝様の模倣の繰り返しに伴う形式化・マンネリズム化からの脱却を模索しようとする意図が,多少とも働いていたと見てよいのではなかろうか。しかしこの京都仏師の中の古典研究の動きは,奈良仏師におけるそれのようには,-22 -
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