元2年から3年(1176-77)にかけて,明円によって造立された大覚寺五大明王像は,4.興福寺講堂像との関係その後順調に発展していったように見えない。それはひとつには,京都仏師の仕事の多くが高級貴族に負うところが多く,彼らの趣味・意向から離れて仏師独自の創意を発揮する自由が極めて乏しかったという事情によるのであろうが,仏師自身の側にも,造形の方向性が奈良仏師におけるほどはっきりとつかめてはいなかった,という事情もあったのではないか。考えてみれば翻波式衣文は,古典研究に熱心だった奈良仏師が,一貫して採用しなかった造形要素であった。それはこの衣文形式が,ともすれば像の表面的な装飾性を強める傾向があり,像の実在感の強調に役立たないと判断されたからであろう。たとえ一部の仏師であるとは言え,その翻波式衣文に関心を示したところに,京都仏師の古典研究の姿勢が象徴的にあらわれている。それは,新しい仏のイメージの模索と言うよりも,仏像彫刻の装飾的要素を極限まで追求した院政期の京都の,貴族的美意識の延長線上に出てくるものであったのかも知れない。もちろん京都仏師の古典への関心は,翻波式衣文だけに限られるとは言えない。安中尊の不動を除く四明王像が東寺講堂像を手本にしている,という指摘もある(注11)。しかしこれはかなり特殊な例で,この群像が嵯峨天皇御願と伝えられる当初の大覚寺本聰五大明王像の復興像と解される(注12)らしいことは,考慮する必要がある。以上,京都の旧派仏師の中の古典研究の動きを推測せしめる作例をいくつかあげてみたが,それは十二世紀後半の彫刻の中でも極めてわずかであり,しかも古典に対する関心とは言っても京都仏師のそれは,定朝の一世代前の康尚時代か,遡っても九世紀ころまでの仏像に限られる傾向が強い。このような中で,長講堂像のような片足踏下げの両脇侍像を伴う三淳形式が,仏師の自発的研究の結果として出てくる可能性は,もちろんないとは言えないが,今ひとつ蓋然性に乏しい印象は否めない。仏師がこの形式に注目する何かもっと強い動機づけがなかったのだろうか。長講堂阿弥陀三尊像の作者を仮に院専とした場合,彼には長講堂像造立以前に,両脇侍像の片足踏下げ形式に関心を向けるような,何かの機会があったのだろうか。長講堂像が造立されたと考えられる寿永3年(1184)に近いころで,院尊にとっての大きな仕事と言えば,興福寺講堂仏の復興造像があげられよう。周知のように,治承4年(1180)12月の平重衡の兵火によって全焼した興福寺の復興造営は,翌養和元年(1181)直ちに着手された。当初金堂と講堂の仏像は,院尊が-23-
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